井上丘隅 54歳 妻52歳、娘31歳

遠藤元之助の妻34〃 長女14歳、二男7歳、二女3歳

大竹勝左衛門 30〃 妻26歳、長男6歳、姉35歳

岡本丈助 48〃 妻40歳、娘14歳、二男10歳

小沢八弥の母 70〃 長女10歳、二女6歳、三男3歳

河原善左衛門の母 68〃 娘9歳

木村兵庫の父 68〃 母59歳、妻32歳、娘8歳、娘6歳、養父60歳、養母50歳、義妹25歳

熊谷治兵衛の妻 46〃 長男13歳、三男歳不明、四男8歳

小森駿馬の妻 24〃 倅5歳、妹10歳、妹2歳、祖母77歳

西郷寧太郎の母 44〃 妻16歳、姉21歳、祖母60歳

西郷刑部の母 51〃 妻27歳、娘6歳、倅2歳、妹19歳

柴太一郎の母 50〃 妻20歳、妹19歳、妹7歳、祖母80歳

柴太助の母 46〃 妻19歳、妹2歳

高木豊次郎の母 53〃 妻32歳、長女13歳、二女2歳、弟歳不明

多賀谷勝之進の母 歳不明 弟12歳、弟7歳、祖母歳不明、叔母歳不明、叔母歳不明、叔母歳不明

永井左京 35歳 母62歳、妻30歳、娘14歳、二男11歳、三男8歳、姉38歳

中沢志津馬の母 45〃 妻21歳、倅2歳、祖母60歳、妹歳不明

中野大次郎 72〃 妻67歳、嫁34歳、孫15歳、孫11歳、孫9歳、孫6歳

沼沢小八郎の母 52〃 姉27歳、妹23歳、祖母86歳

野中此右衛門の妻 38〃 長女26歳、二女19歳、五女10歳、長男8歳、六女5歳

和田甚吾の妻 20〃 娘3歳、継母41歳

この名鑑に記載されている23日の自刃者は、西郷頼母の家族9名を含めて160名となる。私が会津若松で西郷頼母の屋敷跡を訪ねた際、そこで見た会津若松市の説明板には、「この日郭内(武家屋敷街)で230名余の婦女子が自刃」とあった。この23日にはまた、城の東北方にある飯盛山で白虎隊士20人の自刃があり、蘇生した1名を除く19名が死亡した。

白虎隊は、急迫する情勢下会津軍の再編が行われた中で、16歳及び17歳の少年をもって編成され、身分によって上士の子弟からなる士中白虎隊、下士の子弟からなる寄合組白虎隊、足軽の子からなる足軽白虎隊の三つに分かれ、前二者はさらに一番・二番の2隊に分かれていた。

兵員数は5隊合わせて300余人、各所で戦闘に参加したが、そのうちの二番士中隊37人が、22日夜、城の東北方新政府軍の猛進して来る大野原方面に派遣され、氷雨の降る中で一夜を明かした。年配者である隊長は、その時、食糧を調達してくると言って隊を離れ、行方がわからなかった。

翌朝、新政府軍の総攻撃があり、飢えと寒さ、それに初めての実戦、指揮官不在という彼らは、会津軍全軍敗走の中、山中を散り散りになって城に戻ろうとし、20人がやっと飯盛山まで辿り着いた。しかしそこで彼らが見たのは、遥かに、城下の燃える煙が城を包んでいるところであった。

そして、それを城が落ちたと見誤った彼らは、そこで自刃してしまった。指揮官あるいは経験のある年配者を欠いたことによる悲劇であった。同じ隊員でも、逃げる途中古参の兵に行き合い自刃を諫められ、無事城に帰り着き、その後の籠城戦を戦った者もいた。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。