第一章 社会は変わる、変わるから新しい時代となる

時への認識は民族、国ごとに違う!?


一般的に時への認識は、世界各国どの民族も同じような感覚を持っている筈だと、思っている人が多いと思います。人は朝太陽が昇ればその日の始まりを実感し、夕方に日が沈めばその日の終わりを実感し、日々の生活を送っています。

ところが、時の捉え方が国や民族によって違う場合があります。日々変わる時への認識が国や民族によって異なると言われると、「何でだ! 本気で言っているのか?」と訝る気にもなるものです。

私達はこの地球上に住む同じ人間同士です。時は自然と共に年がら年中同じことを繰り返すものだと皆が思っている筈です。しかし時は神との契約で繰り返さない、「有限なもの」と認識する民族がいます。

「時は一回きりで繰り返さない、時は後戻りしない」と考える民族の代表が、ユダヤ民族の人たちです。

ユダヤ教は厳しい自然環境下で生まれた宗教とされていますが、ユダヤ人の信仰するユダヤ教はヤハウェを唯一絶対神として信仰する宗教です。ヤハウェは人が生きている現世の諭しの神ですが、人の死後のことまで言及していなかったとされています。

これを受け、ユダヤ教は人がいま生きている時だけに焦点を絞り、時は有限なものとする考えが基本になっていると言われています。

キリスト教もユダヤ教と同様に時は有限だとする考えを大筋で受け継いでいますが、キリスト教は時をいま生きている現世だけでなく、死後の世界、神のいる天国の世界にまで延長し、ユダヤ教より広く時を捉え、踏み込んだ教義にしています。

自然の推移で時を認識するものと思っていた私達日本人は、欧米人が、時を宗教に絡ませる考えに驚かされます。だが、時への認識の違いは、この世をいかに生きるかの違いに繋がるものです。

今生きているこの世の外に、神のいる天国が存在するか否かは、生きている人間の関心の的となるのは事実ですが、キリスト教の時への捉え方は、人がいま生きている「この世」と、人は死後魂となり神のいる「天国」の二つに分けています。

厄介なことにキリスト教は、この世とあの世の外に、さらに「予定説」なるものを加え、人が魂となり天国に行けるか否かは、予め神が一方的に決めている、とする教えになっています。

予定説には、注釈がつき、この世で生きている人間が死後、魂になり神に迎えられるためには、人は現世で神に迎えられるように正しく倫理的な生き方をするものだとしています。分かり難い予定説ですが、予定説はキリスト教を信仰する人達の生きる核になっているフシがあります。

社会科学者マックス・ウェーバーは、予定説での人々がこの世を倫理的に生き、死後は神のいる天国に行くとする生き方を「目的合理性」の生き方と表現し、目的合理性とは、目的を絞り無駄を省き手段を整合して生きる法だと説明しています。

さらに、マックス・ウェーバーは人々が予定説に基づき、目的合理性で無駄のない生き方をすることが、その後のヨーロッパの近代化、資本主義、自由主義へと発展した礎になっていると評しています。

現世と天国を一本の線で繋げ、目的を持って生きる欧米人。時は繰り返すと鷹揚で無頓着に生きる私たち日本人。二つの時への認識の違いは、何とも奇妙な違和感を感じさせますが、この認識の違いは、欧米人と日本人の思考の違い、生き方の違いにも繋がっています。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『特性を活かして生きる』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。