「いらっしゃい。あら、珍しいわね一人で。敏夫さんと一緒じゃないの。それにしても随分遅い御成りね」

美紀はそう言ってカウンターに客を誘い、客の名前が書いてある焼酎を棚から取り出しグラスとアイスペールそれに本日の突き出しのイイダコの甘辛煮を用意して客の前に置いた。

「明日は俺休み」

客が答えた。

「敏夫さんは違うの?」

「よう知らん。あいつとは今、戦闘状態」

「戦闘状態って、喧嘩でもしたの? 仲がいいのに」

「阿呆じゃ、あいつは。中古で車を買うと言うので知っている自動車屋を紹介して話もつけて遣った。けど、ひっくり返しやがった。それで同じ程度の車を違う所で二割も高こう買いよった。俺を馬鹿にしているというよりボケとるわ、ほんま、あいつ」

「あら、普段から俺たちは青魚でDHAを摂っているからボケないって言っていたじゃない」

美紀が突っ込みを入れた。

「ママ、敏夫のような天然じゃ、DHAをいくら摂ってもだめ」

そう言って右手を顔の前でヒラヒラさせた。さらに埒もない喧嘩の内容をグダグダと美紀を相手に喋り出した。美紀は適当に相槌を打ち、欠伸を噛み殺しながら聞く振りをしていた。

客の話は九割九分が愚痴と自慢話だ。しかし、酔った客は本音で語るので話の端々から町で起こっている大抵のことは知ることができた。美紀は町の情報通であり、客の話す町の出来事に大抵は合わすことができた。客が二度、三度とくどいほど話すことも一度はキチンと耳を傾けた。これは、亡くなった智子が伝授した店で客と話を合わせるための接客手法の一つだった。

話の途中だったが、ボックス席の客に呼ばれたのを口実に美紀は客の前から移動し、目顔で康代に交代の合図を送った。

「いらっしゃい」

康代がそう言ってカウンターの客の所に遣って来た。空になり掛けたグラスに焼酎を注ぎ、アイスペールから角氷を入れる。客は美紀に話した内容を再び康代に初めから話し始めた。客は二回も話を聞いて貰ったことで胸のつかえが下りたのかそのうち康代の着ている服の話になった。

「康代ちゃん、ここじゃいつもドレスだけど、一度康代ちゃんの着物姿も見てみたいな」

「あら、買って下さるの?」

「買ってやってもいいけど、俺はしつこいぜ」

客がニヤリといやらしく笑った。

「いやね、話をすぐそっちの方にもっていくんだから」

康代はそう言いながらやんわりとあらぬ方向へ話が進むことを拒んだ。誰が着物一枚ぐらいでお前のオモチャになどなるものか、あほうが。そう思いながら康代は客の奢りのビールを一気に飲み干した。

客の相手をするホステスの顔に多少相手を小馬鹿にした表情が表れても相手は思考力の鈍った酔い客だ。心の内まで読まれる心配は無いだろうと美紀は思っている。ホステスたちの商売っ気の無い会話はママである美紀の耳にも届いているが何も言わない。美紀自身も少々横暴だが酔い客相手にいつも真面目にやってられるかと思うことがある。そんなときは母の言葉を思い出して自分を戒める。

「美紀、水商売は媚を売る商売だ。多少途中で揉めても客が帰るときには自分から折れて、この店はあんたで保っているのよと縋るような顔で送り出すのさ。そうすりゃ、客は必ずまた来てくれる。男は女に頼られるのに弱いあほな動物さ」

智子はしたたかだった。漁師の常連客たちはホステスたちがどれだけ引き留めても朝の早い漁を控え、午後の九時過ぎを目途に波が引けるように一斉に帰路に着いた。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。