モネはその喜びを全身にまとったまま、「今日は君の顔を描こう」と言い出した。さっきまでのデッサンとは別に? 怪訝けげんに思うカミーユには構わず、モネは赤チョークと新しい紙を取り出した。

「そのまま。座ったままで」カミーユがまだいぶかしげに椅子に掛け直すと、モネは膝がぶつかりそうなほど目の前に座ってデッサンを始めた。カミーユは初めて出会ったときのことを思い出した。モネの深い深い瞳。それが今日は、こんなに近くで私の顔を、顔だけをじっと見つめている。ちゃんと鏡の前で身だしなみを整えて出てきたのに、何かおかしなものでも付いていないか気が気でなかった。

アトリエには、モネがサラサラとチョークを動かす音だけが響いている。描きだしたらもうしゃべらない。鋭く強い視線がカミーユを捉え続けていた。それは描くときの、あらゆる対象に対する彼のまなざしなのだろう。きっと、絵画に対する姿勢そのものなのだ。

カミーユはのどがカラカラになった。頰が、燃え上がりそうなほど火照ほてった。思わずかすかな溜め息を漏らした瞬間、モネの視線がカミーユの瞳を捉えた。目が合って、思わず声をあげそうになった。この人が好きなんだと初めてはっきり気づいた。

そう、最初に会ったときから。あのとき、店で目が合ったときの、あの強く深いまなざしにもう惹かれていた。そして、キャンバスに向かう彼を見詰めるたびに、想いはどんどん深くなっていたのだ。

今、気づいたばかりの自分の気持ちに戸惑い、身動きもできないまま、でも心臓だけが忙しく鼓動を刻む。……こんなに近くにいたら、きっと気づかれてしまう。「静まれ、静まれ」。カミーユは必死で念じながら膝に置いた両手に力を込めた。そのとき、モネの左手が両手の上に重なったと思うと、次の瞬間、カミーユは強く抱き締められていた。

「大丈夫。緊張しないで。本当は僕もドキドキするんだ。君があんまり可愛くて」

そう言ってカミーユを離すと、顔を覗き込んでにっこり笑った。そう、この笑顔がたまらなく好き。屈託ない少年のような顔。何か温かいものがみるみる胸の中に拡がっていく。また鼓動が激しくなった。

「顔をよく見せて」

動悸は収まらないまま、カミーユはただ小さくうなずいた。

「そうだ、この帽子をかぶってみよう」

モネは、そばに置いてあった自分の帽子をカミーユにかぶせた。それからもう一言、「笑ってごらん」と言った。カミーユはなかなか笑顔が作れない。そのぎこちない笑顔を、モネは自在な線描で写し取った。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『 マダム・モネの肖像[文庫改訂版]』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。