永瀬清子さんの自筆原稿を吉備路文学館へ寄贈

岡山県赤磐郡熊山町(現在は赤磐市)出身の、女流詩人の草分け永瀬清子さんをご存知でしょうか。

永瀬さんは1931(昭和6)年〜1944(昭和19)年ごろは東京にお住まいでしたが、戦後は故郷の熊山町に帰り、農業のかたわら4人のお子さんを育てながら詩作をしておられたそうです。

私の知っている晩年の永瀬さんは、岡山市で私の恩師の住む上下2軒のアパート「東しののめ雲荘」の大家さんでした。

恩師は、大家さんが永瀬さんだから住んでいるのだとおっしゃっていましたが、おだやかでにこやかな永瀬さんがそんな有名で骨のある作風の詩人だとはその頃は知らず、ただ詩の同人誌「黄薔薇」を主宰して忙しくされているとうかがっていました。

恩師を訪ねるうち何度かお会いしたことがありました。その後卒業してから何度かお手紙のやり取りがありました。

最近この手紙のことを思い出し、我が家のガラクタと一緒になっているよりは日の目を見たほうがいいのかな、と、吉備路文学館へ託したら、と思い立ちました。

以前、作家の石川達三と同じクラスだった母方の大叔父から、卒業アルバムを託されて寄贈したこともあったからです。

以下の原稿は、岡山天満屋でアウシュビッツ展があったときに展示されたもののその原稿がどうも見つからない、と言って断り書きがあり、また思い出して書いてくださったものです。

もしもこれを「地獄だ」と云えるなら

─アウシュビッツ展によせて─

永瀬清子

もしもこれを「地獄だ」と云えるなら

むしろどんなに気が楽だろう

でもこれは魔王や鬼のしわざではなく

人間が引きむしった人間

人間が噛み砕いた骨

人間が雑巾のようにしぼり出した人間の血

ぬぎすてられた半端な靴も

小さな欠けた食器も

いまだに生きて救いを待っている

そして電気のように訴えつづける

私たち人間の魂にむかって

ガラクタのように積まれた悪の記念を見て

心に戦慄と恥辱の斧が打ちこまれる

左に顔を背けては行きすぎられない

立ち止まってただ泣くことはできない。

殺されたものの飢餓は誰でもない私らのもの

アンネ・フランクの祈りは私らのもの

蚕棚(かいこだな)のようなベッドで

薪(たきぎ)のように死と折りかさなって─。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『夫と歩いた日本すみずみ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。