お香

貴族の生活の中で、お香が広く使われていたから、『源氏物語』にお香がしばしば登場することは、不思議ではない。

しかし、お香に関して、現実にありそうにないことが書かれている。なんと、薫は、生まれながらにして、身体からえも言われぬ芳香を発するというのである。

薫の身体から発する香りの香ばしさは、この世の匂いとも思えず、百歩以上離れたところにまで匂ってくるように思われるほどである。

薫が、宇治の八の宮の邸を訪れたときのことである。秋の末ごろの夜更け、木の葉の露で衣服が濡れてしまった。やがて、京から着替えの衣服が届いたので、濡れた衣服は、気をきかせてくれた宿直とのいの男に着せかけた。

すばらしい狩衣かりぎぬや柔らかな綾の着物であるが、宿直の男にはふさわしくない香りがする。香りを消そうと、洗っても落ちない。男は困ってしまった。

あまりに荒唐無稽な話であるから、物語の作者は気恥ずかしくなったのだろう。「あまりなるや」(⑤一五二頁)(あまりなことです)と、自嘲しながらこの話を打ち切った。

それにしても、作者は、なぜこのような話を書いたのだろうか。

香木は高価なものである。とりわけ外国産の希少な香木はさらに高い。

主な窓口は、大宰府だざいふである。輸入された香木を、大宰府の高官が不正に私し、それを高級貴族に献上する。高級貴族は、献上された香木を惜しげもなく日常的に消費する。

高級貴族の邸や衣服は、かぐわしい香りで、それとともに不正の香りで満ちている。

作者の周辺で、次のような会話が交わされたことがあったのではないか。

「お香の香りがたちこめている中で育つ子どもは、香りが体に染みついてしまうのじゃないか」「いや、それどころじゃない。生まれつき身体からお香の香りがする子どもが生まれてくるのじゃないか」(笑い声)。作者が義憤に駆られている様子が目に浮かんでくる。

おどけた歌

紫式部は、おどけた歌を詠んで、遊ぶことのできる人である。

近江の君 「草わかみひたちの浦のいかがさきいかであひ見んたごの浦波」(③二四九頁)

内大臣から弘徽殿女御(弘徽殿大后とは別人)に仕えるように言われた近江の君はうれしくなって、さっそく女御のところへ参上したいと思い、女御に贈った歌である。一首のうちに、常陸、河内(あるいは近江)、駿河の地名が脈絡なく詠み込まれていて、「本末あはぬ歌」(③二四八頁)(上の句と下の句とが対応していない歌)の見本のような歌である。

この歌で言っていることは、「いかであひ見ん」(どうにかしてお目にかかりたく存じます)ということだけである。

この歌に対してどのような返事を書けばよいのか、女御は困ってしまって、女房の中納言の君に代筆するように言われた。

女御(中納言の君) 「ひたちなるするがの海のすまの浦に波立ち出でよ箱崎(はこざき)の松」(③二五〇頁)

近江の君の歌に調子を合わせるように、この歌も、常陸、駿河、摂津、筑紫の地名を脈絡なく詠み込んでいる。

この歌を見て、女御は、「私がこんな歌を詠んだと吹聴されたら困ってしまう」と迷惑がられるが、中納言の君は、「聞く人が聞いたらわかります」と言って、そのまま近江の君に届けた。