『自分達が何か罪を犯したというのだろうか』

医大生から病名を告げられた時も、あれほど取り乱した。意味のないやり取りだけど、ここから先には進みたくない。実態のない世界に一人でぽつんと座っているような感じだった。

京子は痛いところも、苦しいところもない。歩きづらい、重い物が持てない。それだけだ。ほんの少しずつ、何もかもができなくなった。それだけのことなのだ。

「よろしければ、続けますが」

少し間が生じたのを詰めるように、医師が言った。

「はぁー? はい」

今の私は、決して分かり合えない人と対峙しているのではないか、と思うぐらい、混乱していた。

「末期には呼吸困難が発症します。勿論、そこから人工呼吸器という選択肢があります。そのためにも、奥さんとよく話し合ってください。それと退院までには、胃瘻の造設をしたいと考えています」

まだ、医師の説明は終わっていなかった。このまま沈黙がずっと続いていけば、京子の病室に帰らなくて済む。私の心は無意識に苦しみから逃れようとしていた。

医師はメモをしている看護師の方を見てから私に視線を戻した。

この上まだ、大事なことがあるというのか?

「それと、ここを出た後の転院先も考えておいてください」

医師は、もう私の反応を窺うことをしなかった。

私は自分がやらなければならないことがあると聞いて、嫌でも現実に戻るしかないと思った。

『もう、前に進むしかない。逃れる術はないのだ』

胃瘻の造設は、胃カメラを入れるため、呼吸困難との関連を考慮すると、早い実施が望ましいと付け加えての説明だった。京子には、とりあえず、胃瘻のことだけを伝えることにした。

数日後に実施された。しばらくは経口食が可能であると聞いていたが、胃瘻を造設した京子を見て、急に重病人という感覚に変わった。しかも余命一年なのだ。「誰がそんなことを信ずるものか」と一人のとき、口に出して言ってみても、もう、時間は止められない、究極の所まで来ていた。

大学病院での最後の日、ショッピングカートに荷物を入れ、しばらく気力を失ったように、廊下の椅子に座り込んでいると、昼下がりの明るい陽射しの中で、半開きのカーテンの向こう側に、さっきまで京子が入院していたベッドの様子が見えた。

次の患者がすでに入り、とろみを付けた水を、ストローで少しずつ、少しずつ、鳥のような仕草で一寸刻みに飲んでいる様子が、ぼんやりとした私の視界の中で動いていた。

京子は、まだ杖で歩行できる状態だったが、病院内の移動を素早くするために、車椅子に座り、最初から様子を見ていた。 

「私達は、まだ、……まだ、余裕があるよね」

京子の少し強く重ねた言葉で、私は我に返った。

あの人より自分は、まだマシと思いたい一心で出たであろう気持ちを察して、恐る恐る京子を見返した。

車椅子に座っているため、京子の視線は私の目線より、少し高くなっていて、わずかに見上げる形になった。

不安に包まれた京子の眼差しが、一生懸命、私の同意を求めていた。

私は、タイミングが遅れたまま、大きな動作で黙って頷いた。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『ALS―天国への寄り道―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。