「今はもうお父さんのこと恨んではいないの?」

「ああ、もう恨んでへん……。お前にもお父さんがいない分寂しい思いをさせてしまったね。

ずーっと謝らなければいかんと思ってたんよ。済まなかったね。母さんを許してくれるかい?」

そう言って智子は点滴針の刺さった細い腕を伸ばして美紀の手を求めた。

痩せた母の手を握った美紀に不意の涙が溢れた。母の眼差しは父を語る昔のような棘はなく柔らかだった。母は長い年月を掛けて自分を裏切った男への恨みを見事に昇華していたのだった。

それから母は三か月ほど一進一退の状態を繰り返しながら徐々に死に近づいていった。

朦朧とする意識の中で譫言のように漁火の心配を口にする日々が続き、美紀が病室に見舞っても頼りなげな息をしながら寝ているか夢うつつの中にいた。

話もできず美紀はそんな母の顔をしばらく眺めては着替えを置いて病室をあとにするのだった。

そんな日々が続く中、母を見舞った翌日の昼過ぎだった。

病院から電話で母の病状が急変し危篤状態なのですぐに来て欲しいと連絡が入った。

母の意識が混濁し始め、携帯の電話が鳴る度に病院からではないかと言いようのない不安に駆られる日々を過ごしていた頃だった。

「来るべきときが来たか」

覚悟はしていたが美紀はそんな思いを胸に、焦りともどかしさを感じながら車を飛ばして病院に駆けつけたが死に目に合うことはできなかった。

しかし、ベッドに寝かされていた母の死に顔は痩せてはいたが微笑んでいるように安らかだった。

美紀は、苦労を掛けた母が父を恨んだ夜叉のままではなくすべてを許し微笑みを湛えた菩薩と化して逝ったことに何か救われた思いがしたのだった。

美紀が母智子から店を引き継いで店を切り盛りすることで困ることは何もなかった。母と一緒に働いた十年ほどの間に、客のあしらい方や雇っているホステスたちの扱い方などすべて母から教わっていたからだ。

しかし、安普請の建物は築後二十年以上が経過し潮風に晒されてあちこちに綻びが生じていた。

美紀は、母の仏事が一段落すると一階の店の部分だけを改修した。

店の中のカウンターと天井からぶら下げた集魚ランプは弄らなかったが、壁紙の張り替えはいうに及ばずボックス席のテーブル、椅子はすべて取り換え、数も一セット増やした。それと旧式のカラオケ装置を最新式の通信カラオケのものと取り換えた。

それでも田舎の飲み屋でどことなく垢抜けはしなかったが、その分気取った感じがなく寛ぎやすい雰囲気があると客たちには評判だった。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。