4章 大阪大学附属病院入院時代

辛い日々をやっとの思いで乗り越え絶食が解禁された!

私は好きなものを食べつくした。チキ ンラーメン、たらこおにぎり、カレーパンと炭酸ジュースを平らげた。幸せだったぁ~。私のエネルギーはみなぎってきたぁっ! カンナ様、復活!

だがだが、人生はそんなに甘くはない。

一気 に食べ過ぎたのか、お腹をこわして夜中じゅう腸がねじれたようにトイレの往復だった(恥)。

主治医の井上先生に「限度ってものがある、少しずつ食べていかなあかん」と叱られた。

次の個室経験は、私が発疹を出した時だ。

し・か・し、私は、わぎぁーっと叫んだ。

信じられな いことに、その病室には “ゴキブリ” がうじょうじょいたのだ(なんちゅう病室だ)。母はすぐに 井上先生に報告した。病室はすぐに消毒された。しかしながら、消毒の効果は全くなく黒光りのゴ キブリたちはドアの隙間や天井から現れた。

そのため二四時間電気をつけっ放しにしていた。母はゴキブリたちが私に近づかないように、小さい刷毛で彼らを追い払い格闘してくれた。大部屋に戻 れた時は母も私もホッとした。

阪大病院での入院中も、私は病院食を一度も食べたことがない。私は食べたいものだけを食べて いた。母は百貨店でおかずを買ってきてくれ、出前を取ってくていた。私の体調が良ければ夕食は車いすでも行ける範囲の洋食屋さんや焼き肉屋さんに時々母と行っていた。そこの洋食屋さんのカニクリームコロッケとコーンポタージュは美味しかった。

余談だが、たまにお互いにばつが悪いことに、出入り口で私服に着替えた看護師さんたちに出くわしてしまうのだ。現在と比べて三〇年近く前の病院の規制は緩かったのだろうかなんなのか、幸いなことに見て見ぬふりをしてくれていた。

カーテン事件

私は六人の大部屋の川沿い側のベッドだった。朝と夜に関節痛、こわばりと高熱の症状が現れるのが私のパターンだった。看護師さんたちにはもちろん承知されていた。

ある日の朝、鎮痛剤と解熱剤の座薬を入れて、痛みと熱が治まるのを待っていた九時頃に副師長さんが突然部屋に入ってきた。そして、副師長さんは「遅くまでカーテンしていて日が入らないねぇ」と言って、私のカーテンだけ開けていったのだ。

母は「規則正しく生活できてたら入院なんかしてへんわ」と怒って詰所に行った。師長さんが母に気付き、話を聞いてくれた。母、師長さん、副師長さんと井上先生がカンファレンスルームで事実関係を話し合った。副師長さんは事実を認めたそうだ。

師長さんは、「長い入院生活いろいろあると思いますが……」と言った。母はカーテンの事より師長さんの “長い” という言葉にショックを受けたと言っていた。なぜなら、母は私の症状が治まればすぐに帰れると思っていたからだ。

二五年以上も診てもらっている河先生が回診で「こんなに長いこと入院してるんはカンナちゃんが初めてちゃうか、ギネスブックに載るなぁ」と言ったことがある。

私も母も他の先生方もなぜかケラケラと笑ってしまった。さすがは河先生! カーテン事件はどこ吹く風やら。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『車イスの私がアメリカで医療ソーシャルワーカーになった理由』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。