話し終えてからも、モネはしばらく動かなかった。まるで祈っているようだと思った。巨匠への敬意の祈りなのか、与えられたインスピレーションに対する感謝なのか、あるいは自分の芸術に対する決意の祈りなのか─。

モネは不意にセーヌ河の方向へ歩き出し、カミーユも慌てて追い掛けた。

「海の絵はもうすぐ完成するんですか?」

何か話さなければと勇気を出して訊いてみたが、モネの舌は意外に滑らかだった。

「そうだな、まだもう少し。どこで筆を置くか、それはいつも大問題さ。三月の二十日が締め切りだから、まだ少し時間はある。だけど、描き過ぎはダメだ。足りないのももちろんダメ」

「それはどうやって判断するのかしら?」

「それはね、芸術の神とでもいうべき存在が決める。絶対的なポイントだ。僕らはそれを見極める。目を凝らし息をひそめてね。それでもなかなか見極められなくて迷うのさ」

「迷う?」

「常に」

「意外です」

「これがこの絵の最高の瞬間だと思えるときがある。そこに筆を入れれば後悔するかもしれない。でも、もしかしたらあともうひと筆だけ入れたらもっと良くなるかもしれない。僕らはキャンバスに向かって芸術の神の声に耳を傾ける、いつも」

カミーユは、モネが語る内容よりも、語り続ける彼の様子そのものに魅せられていた。いつもは口数の少ない人なのに、絵のことならこんなに熱心に話してくれる。

あの日、カミーユを釘付けにしたその深い瞳をキラキラ輝かせて。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『 マダム・モネの肖像[文庫改訂版]』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。