第4節 この町のために、今自分ができることを模索した末に

その後は、1月から3月までの3か月間で選挙の準備をしなければならず、多忙を極めた。

小さな人口2万3千人ほど(平成26年当時)の町であっても、私の知名度はない。これまで地域に貢献してきたという実績も無い・選挙を戦い抜くためのお金もない。開業当初を彷彿させる無いない尽くしからのスタートである。

前述した通り、私は平成の大合併に関わり、与謝野町の誕生合併協定書に署名した。

地方分権を推進する中で、脆弱な財政と人材不足を広域化し合理化することで、行政効率を向上させ行政運営コストを削減し、住民サービスの向上を進めることが目的とされていた。

そのために国は合併市町に対して飴と鞭を与えた。鞭は「合併協定が整ったならば一定期限の間に1つの町にすること」である。3つの町が1つになれば、「重複する行政運営コストや公共施設などは不要となる」という考えのもとであった。

飴は2つあり、1つは「有利な合併特例債という起債(いわゆる借金)ができること」である。具体的には、借金の95%のうち70%が地方交付税という形で、国から歳入として受けることができるのである。

もう1つは「合併したものの一定期間(合併後当初は10年間、現在は15年間)は従前の市町の規模の状態で交付税の算定をする」というものであった。

当然その間は合併しなかった市町より多くの地方交付税を受けることができるため、財政運営に緩みが発生することは誰でも考えられることである。

合併後8年経過したが、3町合併の旧町の壁は埋まらず、例外なく財政運営の厳しさに緩みが出てきたと感じた。

地域経済は福祉の町として循環はしていたものの、働く場の減少や統計数字による町内所得水準は、京都府内で後ろから数えた方が早いほどに低下していた。

どのような組織運営でも、経営の3資源を合理的効率的に活用しなければ衰退してしまう……。人的適正配置、予算の投下分野の適正化、無駄な業務の削減など、どれをとっても、この町は課題が山積みだったのである。

そこで、外から改善を求めるのではなく、内部から修復することを思案し、町議会議員選挙への出馬を決めた。この町の人の暮らしに特に関心のなかった私が、何の因果か行政運営や合併協議に巻き込まれ取り組んだ。

そして、その運営自体に疑義を持つことになった。さらに町の幸せとは一体どういったものを指すのか、探求するようになった。もはや、この町を維持・発展させていくことこそが、私のある種の使命なのではないかとさえ感じた。

当選すれば二足の草鞋を履くことになるが、私の決意は変わらなかった。

町議会議員選挙は、平成26年4月初旬の5日間で第1週の日曜日が投票日であった。町長選と町議会議員選の同時選挙であった。多くの町民の方たちが、何一つ経験のないひ弱な私を応援してくれた。

友人や地域の方、支援してくれる方々は、誠心誠意各々の役割を夜通し果たしてくれた。選挙は自分の周りの人の心の中がよく分かると昔から言うが、本当にその真心を貰った。

51年間生きてきた中で、この時ほど厚情を賜った経験はない。戦車(選挙活動の場では、宣伝車を示す)経路の地図を作成し、友人たちが事前にデモ走行をして、休憩場所やトイレの確保、演説の場所、タイミングなど綿密に計画してくれた。