産後、近所に出掛けると、細くなった私を見つけて、皆、異口同音に聞いてきた。

「赤ちゃんできたの? おめでとう」

「男の子? 女の子? どっち?」

説明するのがつらくて、誰にも会いたくなかった。

そこで、六時間授業の和裁教室を見つけて通い始め、一日中家を空けた。教室ではただ黙々と縫物をし、家に帰っても、夫が帰るまで、その続きの課題をどんどん進めていった。

あの頃は、我を忘れて裁縫に没頭できることが救いだった。

お蔭で、一年間で、和裁は袷も帯も羽織も雨コートも一通り縫えるようになった。

昭和四十七年、子供を死産して二年後、やっと初めての子供に恵まれた。子供好きの夫に待ちかねた歓びを届けられて、満たされた日々だった。

初めての赤ん坊は、昼間は機嫌よく過ごす女の子だったが、夜は夜泣きを繰り返し、子育ては睡眠不足との戦いから始まると知った。

それでも健康な我が子の温かい体を抱ける喜びは何にも代えがたいものだった。ピンクのベビー服をきた長女の、キラキラした瞳と、赤ちゃん独特の甘い匂いが私達夫婦に幸せをもたらしてくれた。

サラリーマンだった夫が独立し、新しい生活が始まったのもこの頃だった。

グラフィックデザインの事務所を大阪市内に開業したのだ。仕事はサラリーマン時代に付き合いのあった印刷会社からの注文が多く、納期に追われた。

その結果、睡眠時間も少なくて、休日もほとんどなかった。慣れない営業もしなければならず、体が悲鳴を上げたのか、長女が生後四か月になって、ニコニコと、愛嬌をふりまくようになった頃、夫は発熱と頭痛が続いて、検査入院をすることになった。

結局、原因がはっきりしないままに軽快したため、退院とはなったのだが、この経験から少しでも休息の取りやすい、ストレスの少ない生活が夫には必要だと感じたので、宝塚の実家を離れて、職場の近くに住居を探すことに決めた。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。