第二の人生 結婚 子育て

昭和四十四年、二十一歳で入籍した。知り合って三年。

その間、楽しいことばかりでもなくて、結婚は、やっと落ち着けた環境だった気がする。結婚式は近親者だけで簡素に済ませた。

結婚生活は宝塚の実家で、私の両親との同居でスタートした。やっと静かな生活に慣れた頃、妊娠を知った。夫の父も元気な頃だったので、皆に喜ばれたのだが、四か月に入る時期に思いもかけず流産してしまった。

妊娠すれば何事もなく生まれてくるものと疑わなかったので、喪失感に苛まれた。妊娠も流産も自分の体に起こることなので、独身時代には経験しない体の異変が続き、精神的にも不安定な時期だった。

それから一年もたたないうちに二度目の妊娠を知った。同じことが起きないように用心して生活し、無事臨月を迎えた。

ところが、初産の子供は逆子だったために、出産途中で、胎児の心音が聞こえなくなった。

結局、長時間のお産の末、死産となり、我が子の産声を聞くことはできなかった。

その夜は隣室から聞こえてくるよその赤ちゃんの元気な泣き声がつらかった。子供の声の聞けなかったことが身に染みて、布団をかぶって泣いた。

翌朝、小さな棺に入れられた娘の顔を見て、父親似だと思った。自分の体の中で、りっぱに産み月まで成長した女の子だった。生きて産まれなかったけれど、流産の時とは違い、作品を仕上げた達成感のようなものは感じた。

夫と二人で棺にお菓子や花を入れてやって、乳を含ませることもなかった子供を見送った。見送る際、市の担当者から、

「胎内で亡くなった子供さんの体は死体ではなくて死胎として扱われます」

と聞かされた。

「戸籍には、お二人の長女としての記録は残りません」

とも伝えられた。

産まれてきたしるしが何もないのが哀れだった。

その上、担当の医師が不用意な言葉を吐いた。

「戸籍が汚れなかったのはよかったです」

私は、それまで、戸籍が汚れるという表現があることも知らなかった。

それは元気な赤ん坊を産ませることができなかった医師の、後ろめたさが思わず言わせた言葉だったと思う。

しかし、十月十日無事なお産を願ってきた母親に対して、生きて産まれた後に死亡するより、死産でよかったと言っていた。医師の無神経さに憤りを覚えた。

胎児の死に関して、自分には、医師の処置に対する不満も、言い分もあったが、言ってもどうにもならないことなので、黙っていた。

それ以上気持ちのやり場がなくて、お産の翌日ではあったが、退院を申し出て病院を離れた。

心身ともにまいっていた。家でゆっくり休もうと思って、帰宅後すぐに二階の寝室に上がった。部屋に入ってすぐ目に入ってきたのは、片隅に置いてある淡い黄色のベビー布団だった。

退院したら寝かせるつもりで買っておいた赤ん坊用の寝具だった。男の子でも女の子でも、どちらが生まれてきてもいいように黄色を選んだ。お産の前の楽しい買い物だった。

『病院から抱いて帰ってきたら、この布団に寝かせるはずだったのに……』

この腕に赤ん坊がいないことを実感した。空しくて、座り込んで涙を流した。