第一章 伊都国と日向神話

1.ユダヤ系秦氏と『旧約聖書』

秦氏のためには、奈良盆地における同氏の活躍を記念するため、どうしても一人目のハツクニシラススメラミコトである神武が必要であった。后のお名前「富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめの)命」にも、ユダヤ系出身を示す特徴的な言葉=HOTOが見られる(著者第二作)。HOTOは「ユダヤ」のことであり、TATARAは「蹈鞴(たたら)製鉄」の意である。すなわち「ユダヤ式たたら製鉄」の技術を背景にもつ后であることが、名前からして分かるというものだ。

しかしこれ以外にも、神武の崩御年を記念碑的に使用したと思われる節がある。2016年4月4日(月)の各紙に、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」が行われた記事が出た。現在は上皇・上皇后となられている両陛下が、畝傍山麓の神武天皇陵を参拝されたのである。ユダヤとの関連では、それこそ偶然でありまたこじつけでもあるかもしれないが、いまから2600年ほど前の大事件、いわゆる「バビロン捕囚」のことが想起される。

B.C.586年、南ユダ王国の首都エルサレムが陥落し、征服者である新バビロニア国王ネブカドネザル2世は、ユダヤ人約11万人をバビロニアに連行した。そののち約50年間にわたって、彼らユダヤ人は捕囚生活を余儀なくされたのである。

ユダヤの故地に戻ることが許されたあとも、そのうちの10部族は世界に離散(ディアスポラ)した。ユダヤ系秦氏の日本渡来は、元を正せばこの「バビロン捕囚」に起因するので、その苦難を決して忘れないために、エルサレム陥落を起算点にするのは理に適っている。

また、神武崩御年から2016年までがちょうど2600年間になるように、その後の天皇在位年数を調整したので、神話初期の在位年数が異常に長いことになったのではないか。すなわちバビロン捕囚というユダヤ屈辱の年(B.C.586)を忘れないため、神武崩御年を利用した可能性がある。

神武天皇2600年式年祭≒B.C.586年+A.D.2016年

日ユ双方の神話について、系図骨格や記載分量について比較してきたが、物語の内容にも立ち入らなくてはならはい。こちらも驚くほどの類似である。③のヤコブとニニギ(瓊瓊芸)、④のヨセフと火遠理命(=山幸彦)および⑥のベリアと神武の3世代の物語を比較する。系図骨格・分量ばかりか物語の内容においても、双方の神話は共通の基盤をもっている。

それらの類似を達成できるのは、日ユ両方に情報網をもつ太安萬侶が、『記紀』の編纂に関わっていたからである(『古事記』序および『日本紀竟宴和歌』序)。そして彼は、秦一族が住んだ笠縫邑(かさぬひのむら)(奈良県田原本町)では隣人同士であり、ユダヤ系の文化を知る機会も多かったと思われる。さらに自分の姓すら自身の出身を示す「多(おお)」ではなく、ユダヤ系に特徴的な「太(おお)」を使って、日ユの神話情報が『記紀』の下地になったことを暗に示している。
 

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『ユダヤ系秦氏が語る邪馬台国』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。