「おい、諌」

患者がちょうど出ていった瞬間で助かった。乱入者は優介だった。

「なんだ、優介か。どうした」

まるで裏切られたような表情を浮かべている。優介はいきなりわたしの胸ぐらを掴むと力強く捻りあげた。立てかけてあった聴診器がごとんと床に落ちる。

「おまえ、なにやってんだよ。母親が危篤なんだって」

唇は怒りでふるえていた。

「こんなところにいるんじゃねぇよ」

「だれに、聞いたんだ」

「そんなこと関係ねぇ。なあ、諌。おまえを必死に育ててくれた大切な母親だろう。逢いに行ってやれよ。今仕事をほっぽり出したって、だれも文句なんか言わねぇ。俺が言わせねぇ。格好つけるんじゃねぇよ」

こいつは情に厚い。いや、厚すぎるのかもしれない。

「それはできない。できないんだ。骨髄移植まで眼を離せない患者もいるし、わたしも今や外来医長だ。勝手が許される立場じゃない。それに今帰ってしまったら、ここに戻ってこられるか、分からないんだ」

それが偽らざる本音だ。それとおなじだけの強がりもある。こいつに付き合っていたら決意がゆらぎそうだ。わたしの想いを見抜く鋭い眼光が怖かった。

「だれかに代わってもらえよ、なあ」

それは懇願というよりも叫びに近かった。

「できるなら、すでにやっているよ。仕方ないんだ。母の最期に立ち会えないのは残念だけど、代わりに家族を向かわせたから。母さんもきっと理解してくれる」

「ふざけんなよ。本当は行きたくて堪らないくせに」

優介は語気を弱め、天井をゆっくりと見上げた。そういえば昔から、こいつはこういう湿っぽい話になると、天井を見上げる癖があったんだ。

「ありがとう、優介。時間ができたなら、母の墓前に花を添えにいくつもりだから」

ふさわしい時期が来たのなら。墓を埋め尽くすぐらいのカーネーションを持っていこうと、そう心に決めていた。優介は潤ました眼を細めた。

「なあ、諌。今度さ、俺の実家で副病院長就任パーティーをやるから、おまえも来てくれよ。三次会、四次会まで連れ回してやるから、覚悟しとけ」

「二次会は当然なんだな。ああ、楽しみにしている」

「そうと分かれば、色々と段取りしねぇとな。医局に辞表出すの、すげぇ億劫でさ。どうしたもんかな、こういうの」

優介はそんなことを呟きながら戯れるように俺の肩を小突くと、「邪魔したな」と鼻を鳴らして診察室から出ていった。込みあげてくる想いに流されてしまわないよう、ぐっと眼を瞑ってから、次の患者のカルテをめくり、これまでの経過を確認しようとした。けれども情報がまったく入ってこない。

どうやら優介に揺さぶられてしまったわたしの魂は、母のもとへ飛んでいってしまったようだ。わたしは背もたれに全体重を預けた。

「優介、わたしも似たようなもんさ。いつまで経っても、さよならが苦手だ」

頭では、おなじ言葉を呪文のように繰り返している。最後まで、馬鹿な息子でごめんな。母さん。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『門をくぐる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。