だんごで勝負

そのころの『いち福』はゆべしをつくる量も増え、個人経営でやっていた仕事は子どもたちが手伝いをすることも多くなっていた。姉は楽しみながら手伝っていたが、私の場合は毎回もらえる100円の手伝い賃のためにやっていた。

さきほどから話をしているゆべしとは、柚子やくるみなどを使ってつくられる和菓子のことで、『いち福』では西日本で主流とされる柚子の菓子ではなくくるみの入った餅菓子をつくっていた。

父がゆべしをつくるきっかけになったのは、母方の親戚の和菓子店『甘仙堂』。甘仙堂は1984年に仙台市袋原の地で現在の社長である菅原秀夫氏により”ゆべし”の製造をはじめた和菓子店だった。

今では直営店をはじめ、全国の百貨店に取扱店をもつ人気店で、父は当時、甘仙堂の社長に頼んでつくり方を教わっていた。

甘仙堂の“ゆべし”は、厳選したもち米による上品な甘さの生地と、そのなかに香ばしいくるみをたっぷり入れてつくるのが特徴で、食感はもっちりとした歯ごたえ、醤油の香りと香ばしいくるみの味が贅沢に口のなかに広がる。一度食べたら虜になるゆべしだ。

そのゆべしのつくり方を教わった父は、『いち福』のメニューとして取り入れていた。

くるみが贅沢に入ったゆべしは『いち福』でも創業当時の人気商品となり製造個数を増やしていた。

ゆべし

「ありがとう、助かった」

ゆべしの包装を終えた母は、姉と私にそう言って腕を伸ばし背伸びをした。

「明日また朝早いから。はい、お風呂入るよ」

そう言って店舗の裏にある2畳ほどの作業場の電気を消して、住宅兼店舗となっていた岩間家の2階の住まいに三人で戻って行った。

父の菓子づくりは毎朝4時から始まる。朝一人での作業はだんごをつくるのに4、5時間かかり、その合間におはぎもつくっていた。9時開店を考えると自ずと朝はその時間になる。

8畳ほどの作業場には真んなかに大きな作業台があり、それがその部屋のほとんどを占めている。

流し台や米やゆべしを蒸すためのガス式のボイラー、それにだんごを練り出す機械を置いたらお世辞にも広いという空間ではなかった。

住まいには父の部屋と呼ばれる場所はなかったが、私から見るとその作業場は父が好きなものに囲まれて過ごせる唯一の趣味部屋のように見えた。

おはぎも創業当初からのメニューで、父のおはぎはつくり方に特徴があった。私はそれを見ているのが好きでよく作業場に行った。

「寿司みたいにつくるね」

父のおはぎづくりを見た私がそういうと、

「そうか?」

「うん。寿司握ってるみたい」

寿司職人であった父が好きだった私には、寿司を握っているようなその手捌きが、なんともかっこよく見えていた。

「このつくり方がやりやすくてな。まぁそう言われると寿司握っているみたいだな。体に染み付いてんだな」

そう言いながら、父は淡々とおはぎをつくっていた。いや、おはぎを握っていた。寿司職人特有の握るリズムが父にもあって、全身で奏でるそのリズムから生み出されるおはぎからは1つできるたびに、

「へいお待ち!」

と聞こえてくるようで、それをずっと見ていられた。