【十勝岳(北海道)】 煙と音と臭いのなかを 1990年8月

初めて登る北の山

長い梅雨が終わると、夏は本番になった。山の男友だちと三人で東京を出発。私たちはいま、新潟から小樽に向かう大型フェリーのデッキに立っている。日本海の波は静かだ。ウラジオストックの方面に太陽が沈んでいく。

28歳の藤さんが、30歳の島さんと53歳の私に言った。

「明日の朝4時に小樽に着いて、そのまま車で旭岳温泉に行くだけだったら、時間が余りすぎますよ」

「……」

どうするか、これは宿題として残った。

太陽が西に沈んだので、私たちは船室に戻った。高齢の私が下のベッド。若い二人が右左に分かれた2段ベッドの上。私は上の二人に話しかけてみた。

「明日のこと、家でも考えたんだけどさ。羊蹄山は登りだけで4時間なんだよね」

上のベッドから返事はない。地図を見ていた島さんから言葉が帰ってきた。

「十勝に登ろうか? 行けそうですよ」

「え、近いの?」

と藤さん。船のなかで十勝岳登山は急に決まった。私たち三人の目標はともかく大雪山である。

予定通りフェリーは翌朝4時に小樽港に着いた。藤さんのマイカー、スカイラインGTSTは、まだ明け始めたばかりの煉瓦の街を抜け、札幌自動車道から道央自動車道、滝川から富良野に向かって快調に走った。窓の外には広大な風景が広がっている。

「うわ~。ラベンダーですよ」

「ああ、これか~、ラベンダーって。紫が凄いね!」

しばらく走ると、セブンイレブンがあった。朝食と昼食を買い、駐車場の車止めコンクリートに腰を下ろした。三人並んで電線に止まった雀のようだ。水田の遥か彼方に山脈が青い。島さんが指さす。

「真んなかのとがっているのが十勝岳で、左が美瑛。形の良いのが美瑛富士ですね。たぶん」

北アルプスや関東の山の名ばかりを耳にしていた私にとって、北海道の山の名前は何と新鮮な響きか。藤さんも立ち上がった。

「十勝の右が富良野岳で、その右のちょっと低いのが前富良野かな?」

藤さんは地図を見ながら言った。

山を前に気がはやり、すぐに出発。車は水田を走り、深い森を抜け、綺麗なホテルの白金温泉を過ぎると、望岳台レストハウスに着いた。三人は車から降りて十勝岳の山麓を見渡した。

「不気味だな。噴煙が上がっていますよ」

十勝岳は煙だけではなく、噴火の音もしている。私たちは車のトランクを開けて、ザックに熊除けの鈴をつけた。

駐車場の隅のほうでは、ゴザを敷いておばさん三人が富良野の街を見下ろしながら、おにぎりを食べている。このあたりの人には、こういう食事のとり方もあるのか。私たちは十勝岳に登るのだ。

「行きますか」

「そうですね」

初めて北海道の山を登り始める。熊除けの鈴が雰囲気を出す。左側にスキー用のリフトが見えるが、いまは動いていない。十勝岳は頂上を左に少し傾けてエビフライの尻尾のようだ。「チリン、カラン」と鈴の音。

赤く錆びついたようなリフトの終点を過ぎると、間もなく十勝岳避難小屋があった。上のほうから一人下山してくる。話しかけてみた。

「上のほう、噴火は大丈夫でしょうか?」

「コースを間違えずに登れば、噴火口から離れたところを登りますから、安全ですよ」

下山者は汗を拭きながら答えてくれた。有毒ガスが心配なので、私たちは石に付けられた赤ペンキの矢印を追って登る。ザラザラした砂のなかに、足を沈ませては引き抜くようにしながら登った。

右側2キロメートルほど先から、何分かおきに噴火の音が聞こえてくる。また人が下りてきた。口と鼻をタオルで押さえている。直接吸いこまないだけでもいいのかもしれない。私も真似して口と鼻にバンダナを当てて歩いた。

「ドーン、ドドーン」

私はこの音を聞きながら、戦争中のことを思い出した。