序 ─ 嘉靖九年、われ自宮(じきゅう)し、黒戸(ヘイフー)の宦官となるの事

午後、私は、監督官から呼びとめられた。

「おまえは、身体が軽そうだが、木のぼりは得意か?」

「は、はい」

「では、こっちへ来い」

迷路のような路地を抜けて、案内されたのは、話にきいたばかりの仁寿宮(じんじゅきゅう)であった。皇帝陛下の乾清宮(けんせいきゅう)にくらべてもひけをとらない、広壮な宮殿で、敷地にはすでに浄軍が十人ばかり、庭そうじに入っている。

手渡されたのは、のこぎりと鋏(はさみ)であった。

「もたもたするな。あれを、伐るんだ」

見上げるほどの槐(えんじゅ)の木である。

「根元からじゃない。枝を落とすのだ。太いのが一本、こちらへにゅっと突き出しているだろう? 女官どもが、あれを見て、おびえているらしい」

なんの変哲もない、いや、枝ぶりのいい木に見えるが……。

「夜ごと、出るんだそうだ」

「えっ」

「人影が、あの枝に」

それは、いったい……私は思案をめぐらした。

「……どこかが放った、間諜でしょうか?」

宮殿ともなれば、もれてはならぬ機密が、山ほど存在するものにちがいない。

「何度もおなじ場所で目撃されるような、まぬけな間諜がいるものか。そんな間諜がいれば、命がいくつあっても足らぬわ」

「そんなら、幽霊とか……?」

今度は、監督官のほうが、眉をひそめた。そして、口の前で指をいっぽん立てた。

「わからん。とにかく伐れとの、太后さまの仰せだ。人影の正体がなんであれ、枝を切り落とせば、妙な影を見ることもなくなるだろう」

幽霊か。幽霊ねえ……
(南無三宝、くわばら、くわばら)

樹肌に食い込ませたのこぎりを、力いっぱい前後に動かず。枝といっても人の胴まわりほどもある太さであるから、かんたんには切れない。

「ここじゃ、ここへ、枝をおとせ」

老魏(ラオウェイ)が、下から合図をする。枝が音をたてて地面に落下すると、樹下にいる女官たちの歓声があがった。

「かたづけるぞ」

枝葉も、切り分けて乾かしておけば、りっぱな焚木になる。老魏(ラオウェイ)ら数人の宦官が、切断にかかった。ほかの者たちは、それを遠巻きに見ながら、談笑している。

そこへ、重々しい威厳をそなえた婦人が、宦官をひき連れて、姿をあらわした。

太后さまにちがいない。そして、となりに控えているのは――午前中、まぢかに見た張皇后である。

場の空気が、一変した。

「趙三芳(チャオサンファン)!」

呼びつけられたのは監督官であった。その場にひざまずき、ひたいを地面にこすりつけている。

土下座していた監督官は、やにわに立ち上がるや、つかつかと老魏(ラオウェイ)にあゆみ寄った。そして、いきなり横面を張り倒した。不意打ちをくらった小柄な体軀は、あわれにもふっ飛んで、丸太のようにころがった。

何が起きたのか、見当がつかなかった。

「貴様のような怠け者がいるから、いつまでも終わらんではないか! この宮中は、皇太后さまが坐(ましま)されるだけでなく、歴代皇帝の御魂がやすまれる場所でもあるのだから、つねに、清められていなければならんのだぞッ!」

バシッ、バシッ! 二発、三発、鈍い音が立てつづけに響き、そのたびに老魏(ラオウェイ)の頭が、右に、左にと揺れるのがわかった。

「何年、お仕えしておるのだッ!」

私はただ、ただ、驚き、顔を伏せるばかりであった。

太后、皇后のお二方が去られて、ようやく、殴打の音はやんだ。監督官が、私をつかまえて、耳打ちした。

「今から担架をもって来させる。わたしは、前をもつから、おまえは後ろをかついで、ついて来い。今からこの者の家まで行って、手当てをする。今日は、もう上がりだ」

はこばれて来た担架に、老魏(ラオウェイ)を乗せた。

「おどろいたか」

意外にも、おだやかな声音である。

「は、はい……びっくりしました」

「はじめてなら、無理もないな。おまえ、名はなんという」

「王暢(ワンチャン)、字は叙達(シュター)と申します」

「自分は趙三芳(チャオサンファン)だ。わたしのことは、大哥(ターコウ)と呼べ」

「は、はいっ」

その物言いは理解を絶した。まじめに働く老宦官を撲殺(ぼくさつ)しかねない勢いで張り倒しておいて、自分のことは大哥(コウ)(兄貴)と呼べだなんて。玄武門(げんぶもん)を出たあたりで、趙三芳(チャオサンファン)は、うしろをかえりみた。

「宮城は広いからな。ここで一休みしよう。老魏(ラオフェイ)、すまぬが、下ろすぞ。寒いだろうが、ちょっと辛抱してくれ」

趙三芳(チャオサンファン)は手ぬぐいをとりだして、鼻と、口もとの血を拭きとった。

「う……うぁ」

「お役目ご苦労。明日からしばらく、やすめ。太監には、わたしが言っといてやるから」

老魏(ラオフェイ)は、仰向けのまま、小さくうなずいた。それにしても……。

「なぜ、わたしが、この者を殴ったか、腑におちんようだな。仕事場ぜんたいの空気が、だらだらとゆるんでいるとき、怠け者どもに仕事をさせるには、どうすればいいと思う?」

「わかりませぬ」

「仕事に精出している者を、きびしく叱りつけるのだ。そうすれば、怠けている奴らは、あわてて仕事に身を入れる」

そんな無茶苦茶な。

「それがし未熟ながら、申し上げます……お説はごもっともながら、ここまで痛めつけるのは、あんまりではございませぬか? へたをすれば、死んでしまうかも」

「おまえは、宦官になって、まだ日が浅いな。いつからだ」

「はい、今月からのお仕えでございます」

「そうか……そのような不服申し立ては、命取りだぞ。奉公していれば、理解できないことも出て来るだろう。言い返したくなることもあるだろう。だが、そんな反抗心は捨てろ。捨てなければ、宮中でお仕えなど、できはしない。宦官にとって、いちばん大切なことは、なんだと思う?」

「………」

「自分を殺すことだ。われら宦官は、虫螻(むしけら)のようにあつかわれても、それを、うけ入れなければならぬ。痰(たん)
を吐きかけられたり、笞(むち)でたたかれたりは、日常茶飯事だ。そんなとき、自分を殺さなければ、やがてその代償として、おのれの命をもって、つぐなわなければならなくなる。よいな、自分を殺すのだ。殺して、殺して、日々の生を拾うのだ」

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。