「俺のせいなんだ」

「もう、あの頃には戻れないんだな。優介」

旧友の背中を見送るわたしのまえに、若葉の季節が青々と蘇ってきた。医療ですべての人を救えると信じて疑わなかった頃。わたしと優介は大学生時代、おなじ陸上部に所属していてなにかと馬が合い、一緒に過ごすことが多かった。

あれはいつだっただろうか、大学一年生のとき、退屈な授業が終わった教室でのことだ。

「なんで諌は、医学部に入ったんだよ」

優介は市販の脱色液で染めた金色の髪をもて遊びながら尋ねてきた。脱色で髪質が変わったのか、もともと猫っ毛なのかは分からなかったが、毛先があちこちに散らかっている。

「なんでだったかな」

わたしはドイツ語で書かれた分厚い解剖学の本を眺めていた。自分が医学部に入れたことがなによりも誇らしく、まだ見ぬ世界に胸が踊った。

「金のためか」

「お金は生活できるくらいにあればいいかな」

わたしはくっくと笑みを転がした。それまではあの子がイケてるとか、放送部に美人な先輩がいるとか、組織学の教授と助手が不倫しているとか、そんなくだらない話で盛りあがっていたので、落差が可笑しかった。

「なんだよ。モテたいからか」

「それもあるかな」

「煮え切らない奴だな。諌の両親、どっちかが医者なのか」

「もう、すこし静かにしてよ。今必死で単語を覚えようとしているのに」

あまりのしつこさに苦笑いしながら教科書を閉じた。これほど矢継ぎ早に質問されては、新しい知識なんてまったく頭に残らない。

「優介もさ、なんでそんなにムキになるの」

「理由なんかねぇよ。それに解剖の単語くらい、秒で覚えろ」

優介はふんと鼻を鳴らすと机にどかっと足を乗っけた。わたしは呆れつつも悔しさも感じた。優介は冗談ではなく、いちど見たもの聞いたものを忘れない、強記の持ち主だった。

英語辞書をぱらぱらめくっただけで、単語がどのページのどの段落にあったかを言い当てる芸当を目の当たりにしたとき、とんでもない宇宙人がいたものだと飛び上がった。

「それでさ、さっさと答えろよ。なんで医学部に入ったんだよ」

こいつには自分の道をなによりも貫こうとする、粘り強さというか剛直さがあり、めんどうくさくもカッコ良い。

「嫌だよ、どうせ笑うもん」

「絶対に笑わねぇ。だから教えろ」

「ええ、本当に笑わないでよ」

「男に二言はねぇ」

「そっか。ええっと、母さんのためなんだ」

マザコンだと思われたくなくて、だれにも教えてこなかった。けれどもそれが偽らざる本音で。母さんにはずいぶんと迷惑をかけてきた。

母子家庭でここまで育ててもらったこともそうだし、これから医学部生として勉強させてもらうこともそう。早く一人前になってすこしでも楽をさせてあげたかった。

実はそれ以外にも理由があったが口を噤つぐんだ。父さんを生き返らせる薬を作ってあげたい。そんな馬鹿げた夢なんて、自分の胸にだけしまっておけばいい。

優介は馬鹿にしてくるだろう。そう身構えていたけれど、予想に反して笑うことはなく、じっとこちらを見据えた。気恥ずかしくなるくらいに真剣だ。

「へぇ、そうか。そういう考えができる奴なんだな、おまえは」

意気地なしとか気持ち悪いとか、てっきり罵(ののし)られると覚悟していたので、拍子抜けだった。親のためになんて恥ずかしいと感じる年頃だから。

「羨ましいよ。俺は親父とお袋のこと、いけすかない奴としか思ってないから」

「羨ましいだなんて、そんな」

「おまえは医師に向いているよ。素質がある。流されるまま医師になった、俺なんかよりずっと、な」

そこには本気の羨望があり、なんだかむず痒かった。抱えるものや志は違うけれど、優介とは切磋琢磨しあえる友人でいたい。そう願わずにはいられない出来事だった。