オレンジ色の球体(今野メイコ)

フィリピンの南に位置するミンダナオ島。ダバオ市の児童福祉施設「ジョイハウス」で働く今野メイコは、いつものように子どもたちを連れて施設の裏にある浜辺にいた。この日は浜辺で豪快に遊ぶ彼らの様子をカメラに収めていた。撮った写真は施設のホームページで使用する。

このジョイハウスは6歳から16歳を対象に作られた児童福祉施設だ。さまざまな事情により学校にいけない子どもたちや、孤児となった子どもたちがここに集まってくる。このミンダナオ島に、施設代表の澤田和弘がこの施設を作ったのは9年前。

その当時を知るスタッフから話を聞くと、インフラもままならないこの村に、外部から人が入ってくることはほとんどなく、外国人に免疫のない住民は彼にあまり良い印象を持っていなかったそうだ。ましてや外国人が自分たちの土地に児童施設を作るとなると地域住民の目は冷ややかで、批判も少なくなかったという。

それでも澤田は毎日のように地域住民とコミュニケーションをとるように心がけ、積極的に彼らの文化を学んだり、時には仕事を手伝ったりしながら、自分の敷地以外の行事にもマメに顔を出した。そんな澤田の熱意に、住民たちも次第に心を動かされていった。

やがて、村で彼を悪く言う人は誰もいなくなり、今では国籍も肌の色も話す言語も違う澤田を、ジョイハウスの子どもたちは実の親のように慕っていた。

この施設にメイコが訪れたのは2013年の年が明けてすぐのことである。

山梨の甲府で看護師として働いていたメイコは、インターネットで「ジョイハウス」のホームページを偶然見つけ、ボランティアスタッフの募集をしていることに興味を持った。そして気まぐれに掲示板にメッセージを書き込んでみたのだ。はじめは質問程度で送ったメッセージだったが、先方のレスポンスが早く、メールでのやり取りを続けるうちに好感を持ったメイコは、いつしかミンダナオ島への出発を決意していた。

期待と不安で恐る恐る島に上陸したメイコを現地の人々は温かく迎え入れてくれた。これも澤田の積み重ねてきた努力のおかげだった。

メイコはここに来た当初、ひと月ほど滞在したら日本に帰ろうと思っていたのだが、ここで過ごすうちにそんな気持ちはどこかに行ってしまった。ダバオの中心部から少し離れたこの村にはカフェや娯楽施設はもちろん、日用品を手に入れるためのスーパーマーケットもなく、昭和初期にタイムスリップしたような生活に慣れるまで苦労した。しかし、何もなかったからこそ、メイコはこの村に無限の可能性のようなものを感じていた。

メイコは、以前から日本を出ることを漠然と考えていた。その思いが強くなったのは、20代後半になって今の生き方に不安を感じるようになってからだった。その頃、自分が置かれていた環境に不満があったわけではなかった。仕事にもやりがいを感じ、周りの環境も良く、給料もそこそこもらっていた。心を許せる友人もいたし、家族も健康で、お気に入りのカフェも、行きつけのバーもあった。

その生活を続けていれば、結婚して家庭を持って幸せに暮らせるイメージも容易に想像できた。しかし、改めて人生を振り返ったときに「自分が誇れるような生き方をしてきたか?」と問われると答えは「ノー」だった。

世間体を大切にする両親の顔色を見ながら大学へ進学し、卒業後は就職というレールになんとなく乗った。真剣に何かに向き合って取り組んだものがないせいか、やりたいことなど何もなかった。それでも不自由しない生活を送っていたのだが、それが今になって違和感に変わった。

「お姉ちゃんも家族ができたらきっと考え方も変わるよ」

2年前に結婚した妹が膝の上で子どもをあやしながらそう話していたが、そのときの私には響かなかった。心のどこかに雲がかったものを感じていたからだろう。メイコは自分に子どもができたときに自慢できるような生き方をしてみたかった。

誇らしい人生を生きた一人の女性として。

そしてメイコは思い切って日本を離れる決心をした。平穏な生活から離れれば何かが変わる気がしたからだ。メイコがジョイハウスにやって来て1週間ほど経ったときのこと。

メイコは澤田に、今の生き方が幸せなのかを尋ねてみた。彼は、

「幸せだよ」

と即答した。

「メイコは幸せじゃないの?」

と澤田が聞いてきたので、メイコは「わからない」と答えた。わからないと答えたのは、このときもまだ葛藤をかかえていたからだ。澤田は私に何か言いたそうな顔をしていたが、優しく口元に笑みを浮かべているだけだった。

その翌日。

メイコが夕食の準備をしているとキッチンに澤田がやってきた。施設内のキッチンは風通しが悪くて、火を使うと熱気に包まれる。たった今来たばかりの澤田のシャツもすぐに汗ばんでいた。

「メイコ、西の浜辺に行ったことある?」

澤田は額の汗をぬぐいながら言った。

メイコは「ううん」と首を横に振って答えると、澤田はニコリと笑ってそのまま建物の外に出て行った。メイコは不思議そうに首をかしげてから再び料理を続けた。

それから少しすると今度は子どもたちがやってきた。

狭いキッチンに子どもが3人。ドアの向こうにはまだ数人いる。ふいに男の子が恥ずかしそうにメイコの手を握った。いつも目をキラキラさせながらくっついてくる彼の名前はサムだ。この子の両親はサムが2歳のときに島を出たっきり戻って来ていない。澤田から話を聞いていたので、私はここの子どもたちが少なからず家庭に事情を抱えていることを知っている。

「ん? 何? その顔はなんかたくらんでいるわね?」

メイコはいつものように日本語で話しかけた。タガログ語が話せないメイコは、日本語のほうが感情を込めて話せるぶん、コミュニケーションが取れる気がしていた。子どもたちはメイコを囲みこむと腕をつかんで外へ引っ張り始めた。メイコは慌ててコンロの火を止めるのが精いっぱいだった。子どもたちとゾロゾロと家の外に出ていくと、澤田が白い歯を見せながら待っていた。

「夕食は僕が作るから子どもたちと西の浜辺に行っておいでよ」

「え、今? 浜辺に何があるの? 後からじゃダメなの?」

メイコは困惑しながら澤田に目をやった。やることがまだたくさんあるうえ、みんなの夕食の準備を途中にしてまで、今その浜辺に行く意味が理解できなかった。

「この前、メイコが言っていた『幸せ』のことだけど、浜辺に行くと意味がわかるよ」

そう言うと澤田はメイコの手をひく子どもたちにウインクをして合図を送った。

子どもたちはそれを見て、まだ言葉が口から出かかっているメイコを森のほうへと引っ張って行った。

「ちょ、ちょっと、待って、ちょっと!」

強引な子どもたちの案内に困惑しながら後ろを振り返ると、澤田が笑顔で大きく手を振っていた。

子どもたちに連れられて、道なき道を20分ほど歩いた頃、メイコはサンダルに入った砂利をとるため歩みを止めた。子どもたちに合わせて歩いていたせいで、息が上がり、自分の心音がやけに大きく聞こえた。心臓の音が少し落ち着くと、ふとメイコの耳に微かな波の音が届いてきた。浜辺が近いのだろう。

また急に子どもたちが走り出すと、メイコはひかれるようについて行った。丘に差しかかったところで、メイコの体力では彼らについていけず、だいぶ遅れをとりながら這うようにしてそれを登った。風に乗って海の香りがする。この丘の向こうに浜辺があるのだろう。

このとき、時間にすると数秒であったが、ふと、メイコは幸せについて考えてみた。

お金をたくさん持っていて裕福なこと? 美味しい食べものがたくさんがあって、おなかいっぱい食べられること? 愛する人と一緒にいること?

あれこれ幸せの定義について考えていると、そもそも、澤田はなぜこのタイミングでここに自分を連れてきたのだろう? という疑問にぶつかった。

ようやく丘を登りきったメイコは、その視線の先の景色に言葉を失った。

鮮やかなオレンジ色に塗り替えられた世界。それは今まで見たこともない景色だった。

夕日が空も海も大地もすべてオレンジ色に染め上げ、境界線を奪っている。あまりに現実離れしたその光景に、メイコはしばらく目を離すことができなかった。子どもたちがそこに向かって駆けていくのが見えた。その光景はまるでオレンジ色に輝く空に向かって天使たちが舞っているようだった。大人たちに裏切られた傷を持ち、生きることに悩みを抱えた子どもたち。無邪気にじゃれあう彼らからは、そんな悲壮感は感じられない。

オレンジ色の球体は地平線の向こうに消え、やがて空を桃色に染め上げた。その染め上げられた世界で子どもたちは飽きもせず戯れていた。

メイコはサムがこっちに向かって大きく手を振っているのに気づいた。屈託ない笑顔は少し離れたここからでもよくわかった。服を着たままはしゃぐ子どもたちは、この後帰る体力など気にはしていないだろう。夕食の時間も、洗濯も、明日の天気も気にしていない。ただ幸せな時間を追いかけている。メイコは桃色に染まった世界を眺めていた。靄がかっていた生き方にヒントを与えられた気がした。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。