増阿弥の能は、無論弥三郎もよく知っている。はっきりと、憧れているといってもよい。田楽の能は元々、大勢で居並び、声を合わせて謡い、ときにはとんぼ返りなどの離れ業も交え、集団で見せる芸の印象が強い。

その中で、増阿弥の芸はまさに孤高を保っていた。音曲も舞も、見せ所や聞かせ所という振りを見せず、その能に即した音曲、音曲に即した舞を、ひたすらに突き詰めていくといった風情(ふぜい)である。

そこから生み出される独特の空気は閑寂にして典雅であり、世阿弥は「冷えに冷えたり」と評していた。時の将軍に愛されている増阿弥の芸を、世阿弥も無視はできない。

かといって、彼の真似をしているばかりでは勝つことはかなわない。世阿弥には世阿弥の大きな武器があった。

それは何より能を書くこと。観阿弥や多くの先達(せんだつ)から受け継いだ能をさらに磨き上げ、書き直し、あるいは全く新しい能を一から作り上げ、誰にも真似のできない境地を切り開いていく。

世阿弥が世に送り出した能の数々こそは、大いなる山脈のごとき偉容を誇っていた。あの頃から、弥三郎もまた自分なりの能を生み出したいと思い、世阿弥という高い峰を目指して努力を重ねてきた。

そして、その道においてもまた先達となり、導いてくれたのは十郎の存在であった。それはまだ後のことになるし、ましてやその先達の道があまりにも早く途切れてしまうことになろうとは、その時は思いも及ばなかったのだが……。

そのことはさておくとして、増阿弥の方でも当然のことながら世阿弥を強く意識していたことは疑いない。これも後に七郎から聞いたことだが、増阿弥は世阿弥の能を評してこのように語ったという。

「たぶたぶと言い流すように謡うところは犬王のよう、蟻通(ありどおし)の能は初めから終わりまで喜阿弥そのまま、かいがいしく繕いながら曲舞を舞うところは観阿弥のようだ」

増阿弥がどのようなつもりでこのように述べたか、定かではない。単純に世阿弥の芸の多彩さを褒めたのか、あるいは色々な先達の良いとこ取りをする、見方によっては節操の無さを揶揄する気持ちがあったのか。

いずれにしろ、これはそもそも世阿弥が七郎に語ったことであり、そのときの世阿弥は不快そうではなく、むしろ愉快げに見えたと七郎は言っていた。

世阿弥にしてみれば、他者の芸を学んで自分のものにするのは自分が持つ技の種を増やすことであり、それだけ種々の花を咲かすことができる、良いことである。

増阿弥のように己の世界を突き詰めて絶対的な境地を求める、そのような行き方との差異を面白がっていたのではないか。

弥三郎はそんな風にこの話を受けとめた。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『夢花一輪』(幻冬舎新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。