日曜、カミーユはフェルスタンベール街への道を急いでいた。

実は、ゆうべはよく眠れなかった。ムッシュー・モネが、あの深く強いまなざしでカミーユを見詰め、その姿を描く。想像しただけでも鼓動が速くなった。

彼らはモデル探しに苦慮していた。そして、ちょうどそのとき憐れむべき少女カミーユを見つけ声を掛けた。

その事情はよくわかっていても、それでも自分を求めてくれたということは、私を描きたいと思ってくれたから? そう信じたい気持ちを抑え切れなかった。

パリの街は今、皇帝ナポレオン三世の号令のもと、セーヌ県知事オスマン男爵が舵(かじ)を取って空前絶後の大変貌を遂げつつある。二年後に第二回パリ万国博覧会開催を控え、通りには豪華なバロック様式の建物が立ち並び、街路樹で彩られている。世界都市パリの原型が整いつつあった。

カミーユはそれ以前のパリをよくは知らないけれど、中世以来の曲がりくねった道や袋小路は姿を消し、例えば凱旋門からコンコルド広場へまっすぐ続くシャンゼリゼ通りのように、広々とした直線道路が縦横に整備された。それに伴って教会やら劇場やらあらゆる種類の建物の再建・新築ラッシュが続き、いつもどこかで大規模な工事の音がしている。

ルーヴル宮殿はようやく完成し、オペラ座が新築され、ノートルダム寺院も修復中だ。

このパリ改造は、公式には衛生環境の改善、都市の繁栄が目的とされていた。

何より下水道が整備されたことは、この街の公衆衛生と美観の観点から飛躍的な発展だ。それまでは、室内に溜まった汚物を夜中にこっそり窓を開けて通りに捨てるのが常だった。

だから、紳士淑女には帽子が欠かせない。通りは中央に向かってわずかに傾斜し、その中央に汚物を溜め込む溝が設けられていた。街には常に悪臭が立ち込めていたし、雨の日の街路などとても歩けるものではなかった。

けれど、パリジャン、パリジェンヌたちはもっぱら、この改造は市民によるゲリラ戦を封じるためだと噂した。なにしろ、一七八九年のあのフランス革命以来、共和制と王政、帝政がせめぎ合い政変が相次いでいるからだ。

ルイ十六世とその妃マリー・アントワネットを断頭台へと送ったロベスピエールらによる恐怖政治は短命に終わり、革命の余波を警戒する周辺国との戦争の中で将軍ナポレオンが台頭。皇帝ナポレオンが誕生し、やがて失脚。

一八三〇年には七月革命によりオルレアン家のルイ・フィリップが国王として即位。

一八四八年、二月革命で第二共和政成立。ナポレオンの甥ルイ・ナポレオン大公は共和国大統領に就任したが、三年後にクーデターを起こし、皇帝ナポレオン三世として即位した。

クロードとカミーユが出会ったこの一八六五年当時は、ナポレオン三世による第二帝政時代にあたり、政情は依然不安定である。

市民がバリケードを築いて立て籠もりやすい袋小路や、大砲が容易に入り込めない曲がりくねった細い道を、彼ら権力者たちは撲滅(ぼくめつ)したいに違いない。市民はそう噂し合った。

大改造もおおむね最終段階に差し掛かり、広々とした道路にはマロニエなどの並木が植えられ、花々の咲き乱れる公園も整備された。どこを散歩しても美しい、明るく素敵な街になったと思う。

セーヌ川沿いの通りを左に折れて行くと、やがてフェルスタンベール街に着く。いつものようにマロニエの樹の下に一瞬立ち止まり、ムッシュー・モネのアトリエの方を見た。

ドレスはこれでよかったかしら。髪は乱れていないかしら。思わず両手を胸の前で握り締めると、こぶしまでが脈動した。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『 マダム・モネの肖像[文庫改訂版]』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。