七十五年目の頬ずり 

平成二十四年春、那覇市の都市計画の一環として()嘉比(かび)小学校に隣接する造成地で墓跡の掘り起こしが行われた。そこの墓跡の一つから数基の厨子(ずし)(がめ)が見つかった。墓の入り口に近い二基の厨子甕には大冝見御殿(うどぅん)本家の大冝見朝昭なる人物の妻と記されていた。

奥の方にあった厨子甕には大冝見本家八代朝平の妻「安里按司加那(あざとあじかな)() 明治四十二年六月四日卒 大正十二年十一月二十三日御洗骨」と記されていた。その人は十七代代国王尚灝(しょうこう)(おう)の八女で琉球王朝最後の(きこ)()大君(おおきみ)安里(おう)(しゅ)その人であった。手前にあったもう一つの小さな厨子甕には「次男大冝見朝明 夭折一歳」と記されていた。それはなんと戦死した私の父の兄の遺骨なのだった。

夭折した朝明や父の祖父は最後の琉球国王(しょう)(たい)(おう)にうすば大冝見(お側付き・秘書官)として仕えた大冝見朝昭という人物で私の曾祖父に当たる人である。掘り起こされたこれらの厨子甕は大冝見本家の墓に一時預かりの形で保管されていた。

今年の春、清明祭の行事を機に厨子甕の一部を分家すじの私たちの墓へ移送することになった。法要を終え、わが家の墓へ厨子甕を移動し、亀甲墓の墓蓋を開けた。ひんやりとした墓の中にはいくつかの厨子甕が据え置かれ、正面には比較的小さな父の厨子甕と母の骨壺が並んで据えられていた。

坊さんの許可を得て父の厨子甕を開け頭骨に触れた。頭骨をそうと抱え上げ、両手で支え持ち対面した。頭骨は思いのほか小さかった。頭骨だけになると人の顔はこんなにも小さくなるのかと思った。細目の顎と歯並びを見て五歳の頃の父の面影をたどった。

「お父さんは、義夫を医者にする」としばしば口にしていたという母の言葉を思い出し、目頭が熱くなった。

「お父さん、よく頑張りました……ありがとう……」と内心つぶやき、思わず頭骨に頬ずりした。七十五年ぶりの頬ずりだった。

沖縄戦の終わる四日前、警察官だった父は知事からの特命を受け、南部戦線で敵中突破をはかる中、迫撃砲弾を浴びて倒れ、その地に埋葬された。三十四歳だった。戦後まもなく埋葬地を訪れ遺骨を探り当て、今ようやく本来の墓への納骨を済ませることができた。

昔のように土葬だったから父親とじかに向き合うことができた。法要を終えた坊さんから、火葬でないご遺骨の場合千年以上崩れることはないと言われた。今、わが家の墓には一歳の兄と三十四歳の弟が百有余年の歳月を経て巡り会い静かに眠っている。