釜山港の山の手で老夫婦がお茶を飲んでいる。

「あんた! またうなされていたよ。ヒロシ、ヒロシって。息子さんね?」

「そうじゃ。あの強い風がなかったら、わしは此処におらんがのー」

十五年前の春、芳蔵と弘は小さな漁港を出た。周りにも幾つかの漁船はいたが、早めに引いたのかもしれない。風に加えて雨も降り出した。

「親父。もう帰るぞ!」

と弘。

「おぉっ! 結構入っとるで!」

慌てて網を揚げようとする芳蔵。

と、そこへ大きな波が襲いかかった。芳蔵は海へ投げ出された。

「親父! 何しとるんじゃぁ! 早く上がれ。魚はどうでもええ!」

網を手繰(たぐ)って芳蔵が船へ上がると、弘は網を切った。強風は陸から吹いて船を遠ざける。波には逆らえない。

「親父。陸と並走する。西へ向かうぞ!」

「そうせい!」

雨が、早春の雪へと変わった。

「ここまでじゃ。覚えておるんは」

「あなたはねぇ、弘さんに救われたのよ。冷たい雨に打たれて、弘さんはあなたを覆って死んでいたと聞いたわ」

「うむ……。そうじゃった。すまんことをした。弘を生かしておれたら……」

「馬鹿ね。子は親を守るわよ。でも、何故帰らなかったの? まだこんなお爺ちゃんじゃなかったでしょう?」

「まだ、ここ(韓国)が併合されていたので、領事館への届け出をしようとしたら、ある人が『わしの所で働かないか?』と誘ってくれた。わしも弘のことがあって、帰り辛かったんじゃ」

「まぁね。でも、奥さんとお嫁さん、お腹に孫もいたのに……薄情ね」

「……意気地なしか」

それは港の仕事だった。社長の船で釣りもした。よく獲るので、彼はわしを重宝してくれた。でも、十年で日本が敗戦。社長等は日本へ帰っていった。

「その頃ね。私と出会って暮らす様になったのは。先の大戦直後だったかな」

「日本が絶頂の頃だったのぉ。月日が経つのは早いもの。時々思い出すんじゃが、孫が生きておれば十五歳。元服じゃ」

「なんなの、それ」

「大人になった祝い事を、日本ではそういう風に言うんじゃ」

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『二つの墓標』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。