慣れない土地での生活に不安も…。

しかし、人の噂は七十五日。大きく膨らみ渦を巻いた噂も時の経過とともに色を失い何事もなかったかのように消えてしまう。

関係した者たちの心に棘のような引っかかりを残しはするが、世間は平穏を取り戻し、以前と変らぬ澄ました顔でまた挨拶を交わし出す。世間は非情だが同時に流れる時の中で驚くほどの寛大さも持っている。

噂とは、世間とはそんなものだ。叔母の言うように世間の噂など気にすることは無い。智子もそう思ったのかそんな噂にじっと耐え、町を出て行こうとはしなかった。

尤も、出て行けば噂を認めたことになるとの思いの他に、智子は他所で暮らした経験がなく幼い子を抱えて慣れない土地での生活に不安があったことも大きく影響したのだった。

美紀の住む志摩半島は、伊勢志摩国立公園にありその中心に英虞湾がある。その周辺は観光地になっている。観光の売りはリアス式海岸の明媚な風景で、入り組んだエメラルド色の海のあちこちに浮かぶ真珠筏は、表現し難いほどのロマンチックな風情を醸し出している。

しかし、この英虞湾を抱え込む志摩半島の海岸線に住む住民のほとんどは観光ではなく真珠養殖や伊勢海老を始めとする近海漁業などに従事している。観光地であることから民宿を経営している者もいるが、宿泊客に出す魚の煮付けや刺身などのメイン食材は自らの漁で賄う者がほとんどだ。

伊勢志摩の小さな港町を歩くと、通り過ぎる男たちから潮の香りが仄かに漂う。昔と違って網はウインチで巻き上げるのでそれほど重労働というわけではないが、男たちの赤銅色に日焼けした顔と隆とした筋肉のついた太い腕は昔ながらの海の男であることを物語っている。

漁師である彼らは当然ながら海で稼ぐ。漁船に乗って魚を獲り漁協の経営する市場で競りに掛けて売り捌く。稼ぎはその日の潮の加減や天候の影響で左右され、時化の続く日は実入りがなく苛付き、大漁の日には機嫌が良い。

そんなことから漁師たちは皆怒りっぽいが気前は良いと傍目には映る。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。