第一章 大仲家のルーツ

2 私と弟妹のこと


弟妹のこと

次男の良治は昭和十六(一九四一)年十月二日生まれで、私より六歳年下です。私とは違って性格は穏やかで、他人に対して思いやりのある子でした。

弟は母と私と三人で、戦時中は疎開先の熊本で幼少期を過ごしています。母は近隣の家庭で機織りの仕事をしており、夜
遅く帰ることがありました。

そのようなとき私は、暗い夜道をお腹を空かしては、落ちた渋柿を拾って頬張りながら母を迎えに行き、時には桑の実で飢えをしのぎつつ弟の面倒をみたことなどが、つい昨日のように思い出されます。

やがて疎開先から沖縄県に帰郷しました。内地の生活状況とは比較にならないほど、厳しい毎日であったことを子供心に感じていたようです。中学生の私が数百メートル先の共同井戸から運んだ飲料水を、弟がヒシャクでドラム缶に移す手伝いをしていたことが今でも思い出されます。

弟は、やがて中学、高校へと進み、父親の生業を継ぐべく獣医大学に進学しました。獣医師の資格を取得後、琉球畜産試験場に勤務する傍ら、南部地域の牛馬を主とした疾病の治療に専念しておりました。

帰郷後、獣医師としての博士論文作成のために、鹿児島県で実験データの作成を三日間徹夜で続けていたある日、気分不良を訴えました。

すぐに鹿児島市立病院に搬送され、検査の結果 “脳内出血” と診断されました。

病院長は私が久留米大学在任中からの知己の先生で、夜半その院長から電話をいただきました。緊急手術の必要性を説かれ、お願いして開頭手術を施行していただくも意識の回復が認められず、翌日に早速私が市立病院を訪ねましたが、執刀医をはじめ院長も学会出席のために不在で、詳細については説明していただくことができませんでした。

致し方なく航空会社に頼み込み、酸素吸入処置のまま那覇空港へ移送しました。知人友人たちの多くの出迎えを受け、我が病院へ搬送して万全の処置を施すも、意識の回復を得られず、二週間後に天国に召されました。

享年働き盛りの三八歳でした。

獣医師の弟 良治

長女の良枝は、終戦直後に熊本県にて誕生しました。間もなく沖縄県に父母と私、そして次男の良治とともに帰りました。食料事情の悪い頃で、両親は養育に苦労していたことがしのばれます。

忘れ難い思い出の一つは、確か良枝が二歳の頃のことでした。軒下に置いていた灯油の残りをビンから飲み込み、家族皆が大騒動になったことがありました。大あわてで当時の糸満地区の病院に駆け込んだ記憶があります。なんとか事なきを得て、その後の発育には問題はなかったようです。

高校卒業後、長崎の臨床検査学校に入学し、早々に大分出身の彼氏と結婚しました。私が医院を開院した後、ともに検査室と医療事務で私を助けてくれて現在に至っています。

長女 良枝さん

次女昭枝は、高校卒業後、栄養士を目指して内地の大学で学びました。栄養士の資格を取得後は某病院の内科にて奉職し、私が病院を開設すると同時に、長女とともに私の病院で奉仕してくれています。

沖縄に専門の栄養士が少ない時代に皆を指導し、厨房の職員の教育も進めながら、入院患者さんの栄養管理に明け暮れていました。自らの体調も万全とはいえない中で、現在も栄養管理課の課長として奮闘してくれています。

三、四女の冴子と康子は双子で、私が在京中の出生ですので幼い頃の思い出はありません。しかし、冴子は医師としての私を助けるべく看護学校卒業後、当院の看護師として尽くしてくれました。

一方、康子は保育士としての資格を取得して幼稚園での勤務後、この数年来、夫とともに学童保育所の認可を受け、糸満市賀数(かかず)で約七〇人の子供たちを対象に教育にいそしんでいます。

五女の真理子は大学卒業と同時に私のもとで事務職として病院を支えてくれています。多岐にわたる病院の什器類や事務用品の購入等、用度課の仕事でいつも多忙な毎日を過ごしています。

このように、妹たち全員が将来、兄が医療施設を設立するであろうことを想定し、医学や教育関係の資格を取得し、父母の指導のもとに各々助け合い今日に至っています。

次女 昭枝
三女 冴子
四女 康子
五女 真理子
※本記事は、2020年3月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 下巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。