武蔵野の代々木に住んだ文化人達

文士村のように特定の箇所に集まったのではありませんが、文士や画家が好んで住んだ場所として、代々木とその周辺があります。

明治時代に都心のお茶の水から八王子へ甲武鉄道(今の中央線)が敷設され、大正時代には山手線が開通し、代々木駅周辺は下町から見て交通の便のよい郊外となりました。

大正時代に入ると、そこに詩人や画家や小説家たちが移り住み、何時の間にか代々木は文化人縁の土地になりました。

「春の小川」の作詞者で国文学者の高野辰之は代々木に居を構えましたが、その住居跡には今も「高野」という表札のある木造の家が残っています。場所は
JR代々木駅から西に歩いて十分程のところです。

高野辰之の旧居跡の前の道を真っ直ぐ西に進むと小さな坂があり、その坂を下った先に「春の小川」の水源池(今はマンションの下に埋まる)があり、そこから「春の小川」は流れ出ていたのです。

高野辰之はその畔を散歩しながら故郷の長野県野沢の風景を思い浮かべて、あの小学校唱歌を作詞したのでしょう。

高野辰之が見た「春の小川」は河骨川と言い、渋谷で宇田川に合流し、その後、渋谷川に流れ込みます。最近、渋谷駅の南側が大開発されて渋谷川の浄化作業が行われた時、「春の小川」が復活したとメディアが騒ぎましたが、「春の小川」は渋谷川の支流の、また支流なのです。

高野辰之が春の小川に行き着く余中で通った下り坂は、後に岸田劉生が描いた絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」(重要文化財)の坂です。

土手を切り開いて造られた赤土の道、垂直に切り立った片側の赤土の土手、反対側の真新しい石垣と石塀は、当時、代々木のこの辺りが住宅地開発中だったことを物語っています。岸田劉生は、その頃、代々木の山谷町に住んでいましたから、散歩の途中にこの光景に出会ったのです。

岸田劉生の絵は、よく見るとディテールまで現実を精細に描いているのに、道路の消失点は高く、両側の塀と崖の消失点は低くて一致しておらず不自然です。奥行きを表現する消失点を二つにずらして、道路を立ち上がるようにデフォルメしたのは、赤土の真新しい坂道を強調するつもりだったのでしょう。

銀座生まれの岸田劉生は沖積層の地面しか見ていませんから、代々木に来て関東ローム層の柔らかい赤土に暖かさを感じて強調したかったのかも知れません。

茨城県の五浦で横山大観と共に画業に励んでいた菱田春草は、目を患って代々木に引越してきます。

高野辰之の旧居跡の近くに代々木山谷小学校がありますが、その校庭の角に菱田春草終焉の地と言う史跡標柱が建っています。

菱田春草の絵画「落葉」(重要文化財)は有名ですが、菱田春草は同じような雑木林の絵を何枚も描いていますから、当時の代々木は、まだ国木田独歩の言う雑木林が広がる武蔵野だったのでしょう。

自然主義文学者の国木田独歩は、佐々城信子と離婚して、明治末期に代々木公園の南端のNHK放送センター付近に住んでいました。代表作の「武蔵野」は、おそらく自宅付近の雑木林を散歩して心を癒やしながら、あの名作を書いたのでしょう。

明治から大正にかけて都心から見た代々木は広大な武蔵野の外れだったのです。

昭和初期に流行った「東京行進曲」は「シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で 逃げましょか 変る新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る」と歌っていました。

文化服装学院の裏通りの一隅に小説家、田山花袋終焉の地という史跡標柱が建っています。田山花袋は明治末期に代々木のこの地に居を構え、没するまで住んでいました。その場所は甲州街道に近く、高野辰之の旧居跡からも遠くないところです。

田山花袋は「蒲団」「田舎教師」などの告白型小説で有名ですが、島崎藤村と共に自然主義文学の旗手として活躍しました。

懺悔と小説(フィクション)との区別を知らない当時の文壇の人々から花袋の告白小説は攻撃されましたが、人生の真実を追究する文芸の立場からは、当時の日本の文壇では私小説の存在意義は大きく、キリスト教会的考え方に支配された西欧文学には生まれなかった独特のジャンルだったのです。

第一次世界大戦で日本は戦勝国となり、大正デモクラシーと言われる平和な時代を謳歌しますが、その頃、多くの文化人は、豊かな武蔵野の自然のある代々木を愛して住み着きました。現代の代々木も、原生林のある明治神宮と広大な代々木公園があり、都内では皇居に次いで緑の多いところです。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『東京の街を歩いてみると』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。