孝雄が自殺して間もなくの頃だった。

誰が流したのか智子は亭主を自殺に追い込んだ悪妻だと腹立たしいような噂が町に流れた。母には、たまたま立ち寄った雑貨屋でそんな噂を耳にした母の叔母である小川和子が知らせに来てくれた。

「美紀ちゃん、お母さんに内緒の話があるんや。ちょっとだけあっちに行っててや」

和子は家に入っても着ている饅頭のようなダウンジャケットを脱ぎもせず美紀を居間に追い遣り、台所で母とヒソヒソ話を始めた。

「今あそこで聞いたんやけどな。あんた、えらいこと言われとるわ」

和子はそう言って智子の淹れたお茶を飲みながら雑貨屋での噂を智子に聞かせた。夫が獲って来た魚を潮風に吹かれながら選り分ける仕事で赤く日焼けした和子の丸い顔には強い怒気が含まれていた。

「女を作って勝手に死んだのは亭主やないか。そうやのに残された者を悪う言うなんて世間の奴らも薄情な。智子、詰まらん噂なんど気にするんやないよ。あんたまで何かあったらあの子が可哀そうやないか。しっかりしいや」

和子は美紀のいる居間を見遣りながら息巻くようにそう言った。

智子は俯きながら黙って和子の話を聞いていた。和子は、まだ三十台前半の姪の行く末を心配して本気で世間を詰り、本気で姪を慰めて帰って行った。美紀にはなぜだかわからなかったが、和子の帰ったあと、母の機嫌が極めて悪くなったのを覚えている。

どうしてそんな噂が立つのか。妻は夫のどんな身勝手な行動にも文句一つ言わずじっと耐えねばならないのか。一体誰がそんな噂を立てているのか。智子は腹立たしさを感じながらも、同時に世間が必ずしも自分の味方ではないことを知らされた。

しかし、人の噂は七十五日。大きく膨らみ渦を巻いた噂も時の経過とともに色を失い何事もなかったかのように消えてしまう。

関係した者たちの心に棘のような引っかかりを残しはするが、世間は平穏を取り戻し、以前と変らぬ澄ました顔でまた挨拶を交わし出す。世間は非情だが同時に流れる時の中で驚くほどの寛大さも持っている。噂とは、世間とはそんなものだ。叔母の言うように世間の噂など気にすることは無い。智子もそう思ったのかそんな噂にじっと耐え、町を出て行こうとはしなかった。

尤も、出て行けば噂を認めたことになるとの思いの他に、智子は他所で暮らした経験がなく幼い子を抱えて慣れない土地での生活に不安があったことも大きく影響したのだった。

美紀の住む志摩半島は、伊勢志摩国立公園にありその中心に英虞湾がある。その周辺は観光地になっている。観光の売りはリアス式海岸の明媚な風景で、入り組んだエメラルド色の海のあちこちに浮かぶ真珠筏は、表現し難いほどのロマンチックな風情を醸し出している。

しかし、この英虞湾を抱え込む志摩半島の海岸線に住む住民のほとんどは観光ではなく真珠養殖や伊勢海老を始めとする近海漁業などに従事している。

観光地であることから民宿を経営している者もいるが、宿泊客に出す魚の煮付けや刺身などのメイン食材は自らの漁で賄う者がほとんどだ。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。