玄関からすぐのその部屋には油絵の具のにおいが充満していた。部屋の壁という壁には、まるでサロンのように絵画が所狭しと飾られている。

床にはイーゼルが何本か立ち、描きかけなのだろうキャンバスが立てかけられていた。初めて見る絵の具箱やパレットも無造作に置かれている。カミーユが歩いてきた通りとあまり変わらない、ひんやりとした部屋だった。暖炉に火の気はない。

先程、ドアを開けてくれた青年は、イーゼルの前に立って作業を始めていた。おそらく、カミーユが来るまでもそうしていたのだろう。画学生?なのにあんな買い物を?ちょっと贅沢過ぎないかしら。

促されるまま椅子に腰掛けると、目の前のテーブルには赤いビロードの布が無造作に敷かれ、溢れそうなほど花の活けられた花瓶が置かれていた。彼らは今、それを描いていたらしい。

片付けてくれれば、テーブル上に大きく商品を拡げられるのだがそれはできないらしく、ムッシュー・モネは奥からもう一脚椅子を持ってきて自分が座ると、目の前の椅子の上を指し示した。そこに拡げて見せろということなのだろう。

カミーユは緊張で指がこわばった。商品を見せるのはいい。そのあと、支払いの話をしなければならないのが嫌だった。このまま、上機嫌のムッシュー・モネに商品を渡してしまえたらどんなにいいだろう。

包みを開き、ジレがよく見えるようできるだけ拡げ、二本のクラヴァットを左腕に掛けて見せた。

「ふむ」

ムッシュー・モネはジレの両肩を持ち上げると、近づけて、また遠ざけてそれを見た。

裏に返して背中の方も同じように見ると、ボタンを外して内側も眺めた。モーヴの裏地が利いている。脱いだときもとてもおしゃれだとカミーユは改めて思った。ムッシュー・モネはカミーユにそのまなざしを向けると、

「想像通りだ。素晴らしい」

と笑顔を見せた。店でカミーユの胸をざわつかせた、あの無邪気ですがすがしい笑顔だ。

私は今日、ただこの笑顔を見たくてここへ来たのかもしれない。あぁ、なぜこのままこのジレを渡してしまえないのだろう。なんて嫌なことを言わなければならないのかしら。

きっと嫌な女だと思われる。カミーユは泣きたくなった。

「……商品は……御代と引き換えに……お渡しするよう、店主から……申し付かっております。……店のやりくりもなかなか……難しいようでして。今日、……御代を……頂けなければ、商品は……一旦…持ち帰らなければ……なりません」

カミーユは、膝の上で握りしめた両手を見詰めながら話した。

「なるほど」

ムッシュー・モネの反応は意外にあっさりしたものだった。カミーユの言葉に対して異議や反論を申し立てるつもりはないらしい。

「前回、だいぶお支払いが遅れてしまいましたからね」

そう言うと、ムッシュー・モネはもう一人の青年の方を見ている。青年はこちらを見て「やれやれ」という顔をした。

ムッシュー・モネは立ち上がると、青年を促して一緒に部屋を出て行った。しばらく、何事か低く話し合っている声が聞こえていた。やがて、ムッシュー・モネは部屋に戻ると、

「今日は、大変残念ですがお支払いすることができないんです。できるだけ早く用意しますから。えっと、お店に取りに伺えばいいのかな?」

と、本当に残念そうな顔をした。カミーユは胸を締め付けられた。いっそこのまま、商品を置いて帰ってしまおうか。だが店主の顔がちらついて、ようやく言うべき言葉を口にした。

「はい。お越しになるまで、必ず、責任をもって保管させていただきます。……ご来店をお待ちしております」

心から待っている。それが偽りのない気持ちだった。

※本記事は、2020年8月刊行の書籍『 マダム・モネの肖像[文庫改訂版]』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。