又、我が家は海が近かったので、風向きによっては家にいても磯の匂いがした。

友達と一緒に、砂浜で地引網を引かせてもらって、網にかかった小さなフグやコチなど商売物にならない小魚をもらって遊んだりもした。

子供たちの一番の遊び場は、我が家のすぐ前にあった寺の境内だった。あの頃、寺は子供たちの公園のようなものだった。境内の中央には棕櫚の木が、大きな盆栽のように植えられ、その茂みの周囲が広々とした、いい遊び場だった。

鐘撞堂や寺の広い本堂の縁の下も、小さな子供達には、絶好のかくれんぼの場所だった。夢中になりすぎて、入ってはいけないと言われている本堂にまで入って、墨染めの衣を着た住職に叱られたことも度々だった。

おかっぱ頭に、床下のクモの巣をくっつけて、泥だらけの足で駆け回っていたのだから、怒られるのは当然だった。

その寺のちょっと先に、幼い子供には何の場所だかわからない不思議な雰囲気の家があった。

父親、母親がいる一般の家庭とは何か違う空気のその家には、たくさんの子供たちがいた。

何故だかわからなかったが、そこの子供たちは暗い顔をして、自分たちと一緒に遊ぼうとはしなかった。

戦後に生まれた私には、当時、事態がはっきり呑み込めていなかったのかもしれないが、そこは戦争で両親を亡くした子供達を収容する孤児院だと、後に、年上の友達から聞かされた。

古関裕而作曲の『鐘の鳴る丘』という孤児院と戦災孤児たちを歌った明るい歌が当時流行っていたようだが、自分が受けたその場所の印象はとても暗いものだった。

後から思えば、親を亡くした子供が、一人で生きるために、盗みなど罪を犯し、捕まえられて強制的に収容され、外出などの自由がなかったのではないだろうか。

終戦後六、七年たっても、駅などには手足を失くした人、松葉杖をついた人が、白い包帯の傷痍軍人の姿で、物乞いをしていたのをよく見掛けた。

幼い自分は、実際に戦争を見てはいないが、残像だけは、ぼんやりと見ていたような気がする。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。