叔父とはその後、一時没交渉になったが、何年かたって、又東京の家に出入りする叔父を見かけるようになった。

当時は人並みに仕事をして、結婚もし、子供もできて穏やかに生活をしているように見えた彼だったが、健康を害し、生活に窮するようになると、又両親を頼るようになった。

叔父の妻が、小さな子供を残して、脳溢血で急逝するという不幸もあったが、叔父自身も心臓の手術をすることとなった。心臓の手術をすると障害者扱いとなり、建築の仕事をしていた彼は、満足に働けなくなった。

私の両親は自分達の三人の子供の養育だけでも物入りな上、叔父の借金の後始末など、心配事とともに、金の苦労が続いた。

結局、叔父の子供が成人した後、彼が肝硬変で亡くなるまで、両親は四十年近くを自分の家庭とは別に、弟のために心を砕いたことになる。母は自分の弟が何度も何度も、繰り返し夫である父にかける迷惑に悩み、父への気兼ねを背負って半生を生きた。

そんな中でも、父が母に優しかったのが救いだった。父は物の考え方がシンプルで、結婚をした時点から、問題が起これば二人の問題として受け止め、母の問題、母の責任とは考えなかった。

母に恩を着せるでもなく、弟のことは二人がともに担うべき苦労として、次々起こる問題を解決しながら、夫婦は平和に暮らしていた。

叔父が五十歳半ばで亡くなって、両親は、やっと経済的に解放されたようだったが、その時、母はすでに六十歳を過ぎていた。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『乙女椿の咲くころ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。