機上の怒号

学会参加のため午後の診療を早めに終え、午後五時発大阪行きのANA便に飛び乗り、奥の窓際の席に座った。出発間近、後ろの窓際の席が空席だったことから中央座席の二人の女性が乗務員の許可を得て移り、早口の大阪弁で楽しげに語らい始めた。そこへ早足で駆け込んできた中年男性が私の席のそばで立ち止まり、後ろの席の女性に向かって「ここは俺の席やで、何しとるんや」と怒鳴った。

二人の女性は「すみません」と小声でつぶやき、慌ててもとの席に戻った。しかし、男の逆上は止まらない。女性乗務員が平身低頭してもおさまらない。若い男性乗務員が代わって謝罪を繰り返すが、怒声はエスカレートするばかり。前の方の席でぐずって泣いていた幼児が泣くのをぴたりと止めた。機内の異様な雰囲気を察知したのかもしれない。

「何でわしの席におばはんふたりがすわっていたんや! 時間がない、早う行けとせかされて来たのに何やこれ!」と遅刻した身を棚に上げ、身勝手なことを言っている。

更に年配の男性乗務員が現れて冷静に対応するも、男は自らの怒声にますます興奮するばかりであった。逆上する男に対して乗務員らは警察の応援を頼んだらしく、しきりに搭乗口を振り向くがなかなか現れない。数分後やっと現れた若い警察官二人が穏やかな口調で「皆様に迷惑かけるから、ひとまず降りましょう」と言っても、男の怒りはおさまらない。

「もう強制的に降ろすしかないですが、法的にどうでしょうか」と警察官の方が、逆に年上の男性乗務員に尋ねると、

「機長は乗客の皆様が不安を覚え、身の危険を感じておりますので、このままでは飛行は無理と判断しております。強制的に降ろしても法的には何ら問題ありません」と答えた。

納得した警察官は、強制退去を実行するため、まわりの席の人たちに遠くに移動するよう要請した。身勝手な男の振る舞いを腹立たしく思った私にも席移動の要請があったが、やんわりとお断りした。強制退去の際、警察官に抵抗してもみ合いになり、こちら側に倒れ込んできたら足で受け止め、蹴り上げてやろうと思ったからだ。

さいわい、男は実力行使に出た警察官に抵抗をあきらめ、大声を張り上げながら、機外へと引っ張られていった。男のために、飛行機は三十分遅れて出発した。あの男の異常な振る舞いは何だったのだろう。もしや覚醒剤常用者ではなかったか……。

一方、八十近い高齢の身ながら、足蹴にしてやろうと思った私の気の高ぶりは一体何だったのだろう。猛々しい青春時代の残り火だったのか、それとも高齢者特有の短気のなせるワザだったのか……。

「医者ともあろうものが……」と、医療倫理に後ろめたさを覚えつつ、機窓に流れる白い雲をぼんやりと眺め続けた。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『爆走小児科医の人生雑記帳』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。