社務所の一階は祈祷の受付で十脚余りの筆記台がある。住所、氏名、生年月日、それに「八方除け」「家内安全」「交通安全」「商売繁盛」など願いごとを書いて受付に持参する。祈祷料を納めると「番号札」を渡され、二階に上がる。

二階は広い待合室で、絨毯を敷き詰め、三百人は座れるほどの長椅子がある。驚くことにいつもいっぱいの人で、皆、番号札を手に待っている。大きな土瓶のお茶はセルフサービスで頂く。義弟が「不思議なものでね。何か悪いことがおきると今年は祈祷料が少なかったかな、なんて思ったりするのよ。変なもんだね」と言う。

「そう、変なものですよね。気持ちの問題でしょうけど」と応じる夫。

やがて館内放送のご案内が入る。「お待たせいたしました。五番の番号札をお持ちの方は廊下にお並びください」。……列に並んで階段を降り、神殿に向かう。入り口で「格衣」という、白い羽織のようなものを渡され、それを羽織って手を洗い、神殿に入る。

祭壇も立派なもので、白木の柱と正面の大きな御神鏡がまぶしい。祭壇にはこれから祈祷を受けるお札が山積されている。神殿の中は、これまた三百人は座れそうなベンチが並んでいる。

そのベンチに皆、神妙な顔をして座る。神官が大きな幣を持って現れ、「ご起立ください、お祓いをいたします」と言って、バサ!バサ!と頭の上で振る。それから二人の神官が祭壇の前に座し、祈祷者全員の願いをマイクを通して読み上げる。例えば、何処そこに住まえる何の某が昭和何年うまれ八方除けのこと、など。およそ百人の「お願い」が十分ほどである。その間、全員が耳を澄まして聞き入っている。

祈祷が終わるとお榊を供えて神殿を出る。そこには今ご祈祷を受けたお札やお守りと紙パックになったお神酒、お神供(紅白のらくがん)と「神土」が用意されていて渡される。

外に出ると冷たい空気が気持ちいい。社務所の前にはこれから祈祷を受けようとする人々が並んでいた。神殿の前は拍手を打つ人々が群がって、お賽銭を投げる音、ガラガラと鈴を鳴らす音が境内に響きわたる。

私の友人の一人Tさんは「私は神も仏も全く信じない」と言う。観光でわざわざ神社やお寺を訪ねても、本殿の前はスッと避けて通り、決して手を合わせることはない。そんな彼女を見るとむしろ不自然で「可愛げがないな」と思ってしまうことがある。もっとも外国で教会を訪ねても私はそれを建造物として見ているし、胸で十字を切ることもないから同じことなのかもしれない。

車に戻ると義妹は早速お守りをバックミラーに下げている。私はなぜか気恥ずかしいのでダッシュボードに納めた。そしていつものように逗子へ行き、海岸の食堂で昼食。近海のとれたての魚を供することで人気があるらしい。鯵のたたき定食がおすすめで、それを頂く。

四人の食事のおすそ分けを貰ったパトラはご機嫌で、「やっと私の出番」とばかりに一目散に砂浜へ走って行った。

(平成十八年)

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『日々の暮らしの雫』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。