現実逃避をしても時間の無駄。頭では理解していた。けれども勇気が足りない。

「庄兵衛、頼みがある」

「なんなりと」

「わたしはおまえを信じる。だがもし、おまえの言うことにすこしでも相違があれば、わたしはその瞬間に舟から飛び降りる。そうすればおまえはわたしを運ぶ使命を果たせなくなり、神に大目玉を食らうことになる」

「折檻(せっかん)」で済めばいいのですが」

庄兵衛は剣呑(けんのん)な返事だ。わたしはこいつとの友情に賭けたかった。

「庄兵衛、わたしを鼓舞してくれ。そうすれば、なけなしの勇気をふりしぼれる」

「承知しました」

庄兵衛は力強くわたしの背中を押してくれた。

「諌さん。楽ではない旅路ですが、共に進みましょう」

わたしは恐る恐る、はじめて光を眼の当たりにするかのごとく、ゆっくりとまぶたを持ちあげた。両岸には百鬼夜行のような集団が依然として形成されている。しかし庄兵衛の言通り、わたしを強襲しようとする様子は見受けられない。

「たしかに、襲ってこないな」

けれど見知った顔になかなかめぐり逢わない。庄兵衛に誑たぶらかされたか。疑心暗鬼になりかけて視線を戻そうとした折、あっと声が漏れた。

ちょうどわたしの真横、灰色の医療服を上下に着ている中年の男に、眼が留まった。寂しいごま塩頭とずんぐりむっくりな体型。たしか医療物品の調達を受け持ってくれた男だ。

「本当だ。知り合いがいた」

もういちど眼を皿のようにして洗い直す。するとかつて机を並べたことのある小中高の同級生や、研修時代にお世話になった関連病院の理事長の姿も確認できた。

しかし彼らはみな無表情で、精巧に作られたロウ人形のようだ。たしかに庄兵衛の言う通りではあるが、まだ確証は持てない。ここはまだ川の半ばだから、比較的縁の薄い連中が集まっているのだろうか。

「いやはや、よかったです」庄兵衛はどこかほっとしたようだった。

「この暗さで身投げされようものなら、堪ったものではありませんでした」

「脅して、すまなかったな」陳謝するものの恐怖で上手く笑えない。

「はやく漕いでくれ。停泊していると気が気じゃない」

停まっていた小舟はこうして動き出す。最終地点には、着実に近づいているようだった。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『門をくぐる』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。