一九七五年頃のことである。夫は飯田橋に近いK病院に勤めていた。ある日、昼食を摂ろうと神楽坂を歩いていて、偶然、幸田氏に出会った。三十年振りだったそうだが直ぐに判ったという。二人は何故か夫の診察室で話し込んだ。聞けば、若くしてたった一人の姉を亡くし、すでに母とも死別していた。子供もいない。でも幸田氏は熱っぽく絵のことを語ったそうだ。

その後、毎年、知求会展の案内状が届くようになった。私が知求会展を観に夫と同行するようになったのは、幸田氏の晩年の十年くらいである。会期は初夏だった。幸田氏は小柄な身体にいつもキチンと麻のスーツを着ていた。画廊の隅の椅子に静かに座っていて、声を荒げることは決してないという印象だった。

氏は好んで、牡丹、葉鶏頭、柿、洋ナシ、野菜等と、武蔵野の雑木林を描いた。いつも十号~二十号位の作品を五、六点出品していた。一年間の制作としては極めて寡作といえると思う。いずれの作品も写実を超えた緻密さと品格のある絵で、観る者を引き込むようだ。彼は特に赤が好きだったのだろうか、鶏頭や、柿の朱から真紅にいたる絵の具の色は観ていると泣きたくなるほど美しい。物静かな彼の内なる情念を見る思いがする。

彼の絵の熱心な愛好家が幾人かいると聞いているが……。私が銀座のギャラリー・オカベで個展をした時、彼は和菓子を持って観に来てくれた。茶色の上着にソフト帽が良く似合い、和菓子を包んでいた紫の風呂敷が印象深かったのを憶えている。こうして年に一度の展覧会で会うだけのお付き合いだったが、亡くなる五年程前からパーキンソンを病んでいるように見受けられた。

そして一九九四年、病状が進み、やっと出品を果たすが、これが最後であった。そして二〇〇一年二月、自宅で永眠した。七十歳だった。が、誰にも知らされなかった。ひと月も過ぎた頃、夫人から知らされた夫は顔色を変えて幸田氏の自宅へ初めて行った。

幸田氏の自宅は下北沢に近い。昭和初期に建てられたらしい木造の質素な家屋で、隙間風がひどく寒かった、と夫は言った。幸田氏は入院もせず、静かに旅立ったらしい。死に至った病が何か、いかなる療養をしたかも夫人は語らなかったそうだ。

ここに未亡人の手で作られた百ページ余りの小型で美しい画集がある。集録された幸田氏の油絵を見、文章を読みながらこのような作文をしていると、「岡崎の連れ合いが余計なことをしてくれる」と天の彼方から苦笑している彼の声が聞こえてきそうな気がする。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『日々の暮らしの雫』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。