かくれみのの画家、北沢知己

幸田氏は一九三〇年、東京に生まれた。彼の父は当時、銀座で洋菓子製造と喫茶洋食の店を経営していた。店名「モナミ」は岡本かの子の命名だそうで、以来モナミは画家、文士など多くの文化人に愛された。幸田氏の父も書や油絵を嗜んだという。

そのような環境の中で育った幸田氏は、幼少より美術に関心があったと思われる。しかし十歳で父を亡くした。病弱な彼は小児喘息に苦しみ、たびたび休学したらしい。が、高間惣七に師事して油絵を習っていた。高校を卒業後、多摩美術大学に進んだ。

一九五二年には旺玄会に初入選している。が、一方、家業の問題で悩み、家業か、画業かの選択を迫られて画業を選んだ。そしてモナミは閉店した。

一九五三年頃からが彼の画家としての充実した時期だった。多摩美術大学の講師を務めながら、旺玄会展で旺玄会賞を受賞し、同会の運営委員に推挙されている。

一九五六年に同級生だった美枝子さんと結婚。しかし、この年、師の高間惣七が独立展に移籍したのを機に退会。この時期、知人の背信で財を失った。画業と生計の両立に苦しむ。

一九五七年、旺玄会を退会した五人の仲間とグループ「知求会」(河北倫明の命名)を結成する。この知求会展はその後、四十回展まで主に文芸春秋画廊で開かれた。前記の挿絵はこうした時期のものである。が、ここにひとつのエピソードがある。

文芸春秋発行の『漫画読本』の目次の隅に本名が載った。それをきっかけに未知の会社からも仕事の依頼の電話が相次ぐ結果となり、本業の絵が描けなくなるのを怖れて、自衛の策を案じた。偽名を使うことだ。それが「北沢知己」だった。住所の「北沢」と知求会の「知」の一字を採って「知己」としたそうである。

こうして彼は売れっ子、即ち流行作家になることを拒んだ。彼自身の言葉によれば、「生来極めて病弱であった故か無常観が強く、死を身近に実感してきた。必定の死を前提に置くと、人間の生にとって大事なものと不要なものの区別が見え易くなる。最初に名利に煩わされることの愚かさを識った。他よりも寡なく得て寡なく費やすに如くはなしと考えた。市井無名の隠棲に身を置くのが画道精進に最適だというのが信条となった」。

そして「願はくば年に一度くらいベートーベンのコンサートを聴き、団十郎の芝居を観たい」と言っている。と、没後、夫人の手によって刊行された画集に載っている。