ATMの順番が回ってきた。金を引き出すと、いつもの給料日の午後より多くの残金があった。毎月妻の智子が住宅ローンの代金を別の銀行口座に振込むために、給料日の午前中には、達郎の給与振込みの口座から五万五千円ほど引き出すのが慣例となっていたからだ。智子のやつ、まだおろしてないな、と思いながら、達郎は今夜の軍資金として三万円ほど引き出した。

キャッシュカードを財布にしまうと、再び美里の顔が浮かんだ。今夜いきなりホテルに誘うのは強引過ぎる。とりあえず飯を食べて、二度、三度と回を重ねてからホテルなり、自分のマンションに連れて行くべきだろう。ただ、過去の経験から、余り慎重に行き過ぎると、飯をご馳走してくれるただのおじさんで終わってしまうので、そこは注意しなければならなかった。恋愛を大事に運ぼうとし過ぎると、せっかく微笑みかけている運命の女神にも、見離されてしまう。

楽しみはこれからだな、と美里の裸体を想像しながら、達郎が銀行のキャッシュコーナーを出た瞬間、胸ポケットに収納しているPHSが鳴った。

「はい、石原ですが」

「あ、課長代理ですか。後藤ですが、たった今、北海道のお姉さまからお電話がありまして、至急折り返しかけて下さるようにとおっしゃっていました」

電話は、課員の後藤京子からだった。

「え、北海道の姉から……」

今までに、北海道に住む義理の姉である聡子から、達郎の会社に電話がかかってくるようなことは一度もなかった。

「はい、確かに、そうおっしゃっていました。ずいぶん、あわてているご様子でしたよ」

達郎は後藤との電話を切った。PHSでは遠距離の北海道にはかけられないので、公衆電話を探した。近くの電話ボックスにはあいにく人が入っていた。ちょうど信号が青に変わったので、御堂筋を渡り、駅前第三ビルの中に入って、公衆電話を取った。三度目のコールで、聡子が出た。

「あ、達郎さん、大変なの、智子が交通事故に遭って、重体らしいの……」

「え、智子が……」

突然の知らせに、一瞬達郎は次の言葉が出なかった。

「そ、それで、け、けがはどこなんでしょうか」

「頭を打ったらしいの……早く行ってあげないと……母は、あのからだですけど、どうにか歩けますから、とりあえずタクシーと新幹線で今病院に向かっています。私もすぐに発ちますから、達郎さんも急いでください」

妹が交通事故にあって、重体におちいっている、聡子の狼狽している様子が声から伝わってくる。

達郎は、羽田行の飛行機の便の出発時間を反芻していた。伊丹と関空とに分かれているので、この梅田からは伊丹へ行く方が早かったが、飛行機の時間によっては、関空へ行って、乗る方が早く到着する場合もあるので、双方の出発時間を手帳を開けて確認しようとした。

「病院は、どこですか」

達郎も、このまま会社へは戻らずに病院へ直行しようと思った。

「金沢にある、金沢第五病院という所です。駅の近くらしいです」

「か、金沢!」

智子は、どうして金沢にいるのか。達郎は、驚いた。

「母の話だと、お友だちと一昨日から旅行に出かけているらしいの……」

東京ではなく金沢……それなら羽田行きうんぬんの話ではない。金沢に一番早く到達する手段を改めて考え直さなければならない。

「とにかく、急ぎます」

と言って、達郎は電話を切った。

金沢……。

智子が交通事故に遭遇した場所が金沢であることが、達郎は不思議でならなかった。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『店長はどこだ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。