当時の黒田家の当主は職隆(もとたか)だったが、その父重隆が諸国流浪の末に姫路に居を定め、山野を巡り薬草を集めて、目薬を作りそれを売って財を成した。その金を領民に貸し付け、返済の代わりに自分の家臣とし、豪族として勢力を広めていった。

職隆は、播磨御着城主小寺政職(まさもと)にも取り入り、政職の養女を妻にもらい受け、小寺姓を与えられ、小寺職隆と名乗っていた。

西からは、長門、周防、鎮西(ちんぜい)をも治め、一大勢力を誇った守護大名大内氏を追いやり、三本の矢の下に猛烈な勢いで東征を目指す、毛利家が備前宇喜多氏を懐柔し、播磨にも触手を伸ばし始めていた。

毛利家の侵攻に対しては、赤松、小寺、別所らは手を結び対抗していたが、一枚岩ではなく、時に応じて手を結んだり、争ったりしていた。

三木城は、小高い丘の上に造られた平山城だった。光秀の訪問の名目は、将軍足利義輝の花押のある安堵状だった。

安堵状と言っても実際はご機嫌伺いの挨拶状の様なもので、光秀が諸国の大名家を訪問する際に役立つだろうと、細川藤孝が、光秀に持たせてくれたものだった。

この安堵状のおかげで、どの大名家も平身低頭の姿勢で光秀を迎えた。光秀は、当主別所安治と面会し世間話の情報交換と、簡単な鉄砲の普及の話をし、三木城を後にした。

次に御着城の小寺政職の下を訪ねた。政職は、天下の情勢や鉄砲の事などには一切関心を示さず、ただ京の風習や茶の湯の事となると熱心に光秀に尋ね、興にいると歯をむき出してキャ、キャと猿のように喜んだ。

政職は、黒田職隆に自分の養女を妻として与え、また小寺の姓も与えて自分の代官とし、職隆の嫡男万吉(後の官兵衛孝高[よしたか])を人質として御着城に住まわせていた。

万吉は、光秀の一挙一投足に興味を示し鉄砲の実演をせがんだ。政職は「これ万吉、そのような物騒な物に、心を、奪われるでない、もそっと優美な心を持つものじゃ」と諫(いさ)めていたが、万吉は天下の情勢や、大名同士の戦いに興味を示し、熱心に光秀に尋ねた。

「十兵衛殿、今この日ノ本で一番に戦に強いのは、どこの誰であろうか」光秀は返答に窮し、「いずれとも分かりませんが、花のあるのは越後上杉謙信殿、実の有るのは、甲斐武田信玄殿、まだ蕾(つぼみ)ではありますが、大輪の花を咲かせる可能性のあるのは尾張織田信長殿かと思われます、しかし西国の大名家はまだよく知りませんので、何とも申し上げられません」

万吉はそれを聞いて「そうか、織田信長か、信長か」と何度もつぶやいていた。

※本記事は、2021年3月刊行の書籍『明智光秀の逆襲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。