しかし、知能化の領域では、ヒトをデータにしてそのデータからヒトを再構築し再生することはできない。つまり、最初のヒトのデータ化は、センシングがどのように精密化されても、一部分のデータ化しかできないだろう。

ヒトの細胞三万個のゲノムをすべて人工的に作り、脳の構造をシナプスレベルから物理的に同じモノで構成しても、生命体であるヒトにはならない。

知能は身体を持つ生命だからであり、知識というデータとは異なるレベルだと思う。このように、特にカネ・モノ・ヒトの各領域をまたぐ不可逆性が情報化の限界であり、データログを使うことに可逆性があると誤謬しやすいことがリスクである。

言語に加えた映像の進化が、飛躍的に実世界の再現性を高めたとは言え、やはりデジタル情報化は実世界の表面的な一部分でしかないことにこそリスクがある。

表面的に見えている映像を高密度でデータ化することはできるが、それは本当に見えている世界なのか、対象の分子・光子の奥行きまで見えているのか。

情報処理技術が飛躍的に進む中でも一人ひとりが現実のその場において常に問うことでこそ、その事象の本質に迫れることは昔も今もそしてこれからも変わらないのではないだろうか。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『情報化・電動化・知能化のリスクマネジメント』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。