穂波には、小さなころから、扉や門の前に立つたび、そんなふうに願ってしまう癖があった。高校生になった今でも、なぜだか、その習慣からだけは卒業することができない。

どうしてなんだろう―あのころ見ていた無邪気な夢なんて、ほとんどすべて忘れてしまったのに。小石がコツンとなにかに当たるように、ひとつだけその理由を思いつく。たぶんそれは、どんな神さまも、まだわたしのその願いをかなえてくれないからだ。

「おはよう」

だれに、というわけでもなくそう言いながら、穂波は教室に入った。

すでに教室にいた生徒のうちの何人かが振り向き、

「おはよう」

と声を返す。たがいに意識することもなく日々繰りかえされる、これもまた儀式のようなもの。

「ほなみん、おっはよー! ね、ね、昨日(きのう)の『アネドルっ!』見た?」

穂波にさっと近づき、声をかけてきたのは、的場千紘(まとばちひろ)。

「ああ、チロ、ごめん。疲れてて、うっかり寝落ちしちゃったんだよね」

「えぇ〜、それ、マジもったいないよぉ。作画も演出もスペシャル神回だったのにぃ」

千紘は、深夜帯や専門チャンネルで放送している"萌えアニメ"が好きな、いわゆるオタクだ。ふだんは、ぼんやりしていることが多いため、みんなから「トロ子」あつかいされているが、趣味関係のことになると、とたんにテンションが変わる。

ちなみに『アネドルっ!』というのは、『ボクのアネキがアイドル声優だなんて、ぜったい言えるわけがないっ!』とかいうアニメの通称らしい(穂波は、そのアニメを一度も見たことがないし、さして興味もない)。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『六月のイカロス』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。