6年後再び転勤で売却したときに残ったのは増えも減りもせず700万円だった。1985年のことで、実はこの頃から舞台が第一幕のフィナーレに入り、「成長のための装置」が効かなくなり、成長が止まりかけたのだと思う。

なおこの間大卒初任給は約3万円から平均14万円となる一方、JRの初乗り料金は20円から120円になっている。ここ最近30年の動きに比べると非常に大きな伸びだったように思えるが、ある意味経済の実態(実力)を反映していたのだと思う(図1)。

図1 大卒男子初任給と国電初乗り運賃の推移

さらにこの間に、日本は世界でも稀に見る低負担・高福祉の国になった。先進主要国のなかでは、税負担が低く、当時の望ましい人口構造のもとで、軍事費の負担が少ないことは別にしても、この国の経済モデルは他の先進主要国からは羨ましがられていた。

もちろん当時でも冷静に先を見ていた人はいたと思う。経済学者や経済官僚など、ベビーブームの終わりとともに将来の人口構造の変化などは容易に想像できたはずだし、このラッキーな成長モデルがいつまでも続くわけがないと思っていた人は少なからずいたと思う。

しかしそれを口に出すことは当時の「空気」ではできなかったのかも知れない。そしてバブルが始まったのが実際はこの頃(85年頃)からだと思う。

国民は夢がまだまだ続くものと有頂天になり、海外に出かけ強い円のおかげで高額商品を買い漁った人も多かった。それまで堅実な成長を遂げていた企業の中には、同じ成長をキープしようと前年同期比といった数字が経営者や従業員を縛るところも出てきた。

コンビニや外食をはじめとするチェーン店が急激に全国各地に広がったが、需要があるかどうかよりも、企業は規模を拡大し続けることを前提とするビジネスモデルになっていて、それを維持するために新店を出し続けていた。

しかし新規分野への進出や店舗数拡大はまだしも、余剰資金でマネーゲームに手をだし、中には成長が続いているように装い粉飾に手を染めるところも出てきた。

一方でIT関連の技術革新がさらに進んだが、もうこの頃からは実産業の生産性向上に寄与したというよりは、ITを使った新しい架空の世界を作りだしたと言える。

それはゲームであり、SNSだった。バブルは90年頃まで続き、日経平均株価3万8915円(1989年)という最高値をつけた。そして大量の不良債権が積み上がった。

これを止めるべく日銀が金利や数量規制でバブル解消を止めにかかった。

これがハード過ぎてその後30年続く不況の原因となったという説もあるが、筆者はそれが厳しかったからとかどうかではなく、経済基盤が大きく変わったのが原因だったと思う。

日本経済が第一幕から二幕に移る間の幕間の喜劇、ドタバタ劇だった。

※本記事は、2021年2月刊行の書籍『自然災害と大移住』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。