プロローグ

その日のソウルは、雲ひとつない秋晴れで、公孫樹(いちょう)並木も黄色に色づき始め、銀杏(ぎんなん)の実を拾っている女性がちらほら見受けられた。

ディック・ペイント株式会社社長の佐藤雅夫は、二十数年前初めてソウルを訪れた時のことを思い起こしていた。金浦空港からソウル市内に向かって、その頃の街路樹は、成長の早いイタリア・ポプラが多く、春、五月初旬ともなると舞い散った綿毛が視界を遮り、また路面に吹き溜まりを作って、交通の妨げにもなっていた。

いつの間にか、公孫樹などに取って変わったが、春の風物詩がなくなり一抹の寂しさを覚える。今では、公孫樹も、落ちた実が街路を汚し、異臭を放つことから、雄木だけ植えようとする動きがあるとか……。

一九九九年(平成十一年)十月二十三日ソウル市の南東に位置する江南(カンナム)のルネッサンス・ホテル二〇階の会議室でディック・ペイント株式会社の現地合弁会社韓国ディック・ペイント株式会社の理事会上程議案について協議するための会議が開かれようとしていた。

ディック・ケミカル株式会社は、東京証券取引所に上場されている日本の塗料や、化学製品を製造販売する中堅会社として名を知られ、本社は、日本橋小網町にあり、日本全土に営業網を持ち、海外にも子会社や、合弁会社を展開している。

その会社の系列会社に、特殊塗料や、金属防錆油剤を生産販売するディック・ペイント株式会社があり、国内に二つの製造工場を持ち、本社は、ディックの本社ビルに間借りしている。ディック・ペイント株式会社は、とりわけ、バブル最盛期の昭和六十三年から、平成四年にかけて、四十五億円前後を売上げ、営業利益も三億円前後を計上し、十二億円の剰余金を持つ優良会社であった。

しかし、昭和六十三年親会社ディック・ケミカルの関西工場の敷地に、新工場を建設した。土地と建物は、親会社から賃借し、工場の機械装置約三億円は、リース契約にした。また、同年十月韓国ディック・ペイント設立、平成元年ベルギー・ディック・ペイント設立と矢継ぎ早に投資を拡大した。

バブルが終焉し、平成五年以降、売上高は、三十億円以下に低迷し、平成十年までは、剰余金を取り崩して役員賞与や、株式配当を行ってきた。