入隊時に8名いた私の8班は、「最もしっかりしている」と思えたM2士が最初の1週間程で依願退職し、帰隊遅延(外出した際、定められた時刻までに戻らない門限破り)を繰り返したF2士が教育の半ばで除隊したが、他の6名は無事に卒業して新隊員後期教育へと進んだ。

後期教育の行き先は人それぞれで、東部方面管内(関東地方、甲信越地方、静岡県、小笠原諸島)の各駐屯地、各部隊……。新隊員前期の教育期間中に各人の希望と適性、そして各部隊や各職種の募集人員枠の都合も踏まえて職種や任地が決められる(※ここで言う任地とは、新隊員後期教育以後の配属部隊の意)。

私の場合、職種は普通科(一般の軍隊の歩兵科)、任地は習志野、そして部隊は第1空挺団を希望した。だが我々の期は、空挺団への人員枠がなかったため希望が叶わず、任地と部隊の再考に迫られてしまう。

任地は習志野以外であるならば、都心に近い市ヶ谷か練馬か朝霞に行きたいと思った。「あわよくば、社会人入試を受験して大学の2部(夜学)に通学したい!」という願望を持っていたからである。

自販機管理会社でお世話になった自衛隊出身のA先輩が「陸自の中で空挺団の次に強い部隊は朝霞の31普連だ!」と言っていた言葉を思い出し、第1希望には朝霞駐屯地の第31普通科連隊を、そして第2、第3希望には市ヶ谷駐屯地と練馬駐屯地に所在する普通科部隊を記入したと思う。

結果として私の任地は朝霞の第31普通科連隊に決まり、そこで新隊員後期教育を受けることとなった。

ともあれ、前期教育の3ヶ月間、武山駐屯地で同じ釜の飯を食った仲間たちが各地に散り散りバラバラとなる。来る後期教育を考えれば感傷に浸ってはいられないものの、やはり別れは辛かった。

修了式の時、10代の仲間たちの多くは涙を流していた。当時24歳の私ですら、涙をこらえるのに必死だったのだから当然であろう。修了式での、教育大隊長の訓示を今でも覚えている。

「君たちは若い。若いが故に理想と現実の格差に悩み、苦しむことも多いだろう。しかし、それに負けることなく前向きに頑張ってくれ。後期教育だけでなく、将来にわたる諸官の健闘を祈る!」という訓示であった。

大学受験に失敗し続けた挙句、いい年をして10代のゴロツキ連中に混ざり、2士から自衛隊に入隊した私の胸には強く響いた言葉である。

(前期教育の3ヶ月で私の体重は約5キロ増え、増量分のほぼ全てが筋肉であると思えた。また、私は皮膚が敏感で神経質な性質だったが、官用品のゴワゴワした毛糸の防寒セーターを直接地肌に着ても全く気にならなくなっていた。成人男性の個体として、私は心身ともに格段に強靭になり、よい意味で鈍感にもなっていた)

※本記事は、2021年3月刊行の書籍『平成の自衛官を終えて ―任務、未だ完了せず―』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。