江戸町人の庭園 向島百花園

今に残る江戸・東京の庭園は、武士階級の大名屋敷でしたが、向島百花園は、唯一つ町人が造った町人のための庭園です。

向島百花園が生まれたのは、二百年ほど前の文化文政時代、町人文化が栄えた時代で、裕福な町人たちが、隅田川以東の地で風流の遊びを始めました。

仙台出身の骨董商が梅林として開園した向島百花園に、当時の文人墨客が集い風流を楽しみました。客人には絵師で俳人の酒井抱一や文人で狂歌師の大田南畝らの当時の有名人がいました。

「梅は百花のさきがけ」との意味で酒井抱一が百花園と命名したと言われます。その後、粋人達がそれぞれの好みの樹木や草花を植えて、それこそ名前の通りの百花の苑になり、大田南畝は表門に「花屋敷」という表札を掛けたそうです。

江戸時代には向島百花園に将軍のお成りがあったり、明治時代には伊藤博文、乃木希典などが訪れるなど、町人の庭園は上流階級の人々にも愛されたようです。

一時、隅田川の洪水で荒れた頃もありましたが、自然の庭園は回復力は旺盛で、今も昔の姿を保っています。いま園内を歩いて見ると、大名庭園と違って大きな池はなく、築山もありません。

格式張った構築物もなく、平板な土地に雑然と樹木や草花が自然に生えたように植えてあり、所々に歌碑や句碑が立っていて、往時の優雅な雰囲気を味わえます。

なお、向島百花園では、毎年八月下旬に江戸時代から続く風流の遊びが今尚行われています。それは虫の声を聴いて楽しむ「虫聴きの会」です。

夕方になりますと、来園者に鈴虫、松虫などが入った虫篭が手渡され、人々は園内でその虫を放ち、鳴き声を聴くという風流な遊びです。

明治の頃までは、東京では日暮里に近い道潅山が虫聴きの名所だったそうです。道潅山上の大石には、明治の画家、尾形月耕が描いた道潅山での虫聴きの絵が刻んでありました。虫籠に虫を入れて鳴かせて、周辺の虫に鳴くことを誘うという様子が描かれています。

東京の虫聴きの名所としては、道潅山の外に、隅田川の白髭橋袂、隅田公園の牛島神社辺り、王子の飛鳥山などがありました。

今は、開発が進んで虫も住みにくくなったようで、自然の中で虫聴きをする場所は向島百花園だけになりました。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『東京の街を歩いてみると』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。