「もし諌さんが、もういちどあの現場に戻れるなら。人工呼吸器を外しますか」

「いや、外さない」

「なぜですか。あれほどに自分を責めていたのに」

「医師は神ではないから。命とは、人間の手でどうこうできる代物じゃない。命の炎をこの手で消してしまうような選択は、わたしにはできない」

それはわたしの理念であり、貫き通してきた哲学でもある。いちど消えた命の輝きは、もう元には戻らない。わたしの手でそれを終わらせることは、絶対にしたくない。

「きっとわたしは古い人間なんだ。石頭のな」

「それは違います。諌さんは、立派なお医者様ですよ」

庄兵衛は櫂を漕ぐこと三回の後のち、労わるようにそう告げたのだった。舟は順調に進んでいた。あれから光は差さず、退屈な暗闇だけが続いていた。吐き気もおさまると手持ち無沙汰になり、つい不平もこぼれる。

「なぜ神は、こんなまどろっこしいことをするんだろうな」

「そうですね、なぜなのでしょうね」

庄兵衛はどんな質問にも律儀に答える。聞かれたことにはすべて答えろ。船頭研修でそう教えられているのかもしれない。

「庄兵衛は、神に逢ったことがあるのか」

「いえ、ありません」

「だろうな。神が目の前であれこれ指図していたら、ありがたみがないよな」

「諌さんは、神様を信じますか」

おまえはそいつに仕えているんだろうが。そう突っ込みを入れたくなったが、なんとか踏みとどまる。神様か。それはずいぶんと傲慢で、幼稚な響きだ。

「どうなんだろうな」

「と、言いますと」

「患者の容態が悪化したら、医師は神に祈るしかない。だがその祈りが通じたことは、あまりない印象だ」

もし神様がいるのなら、もうすこし緊急性の高い祈りに眼を向けるように心がけてもらいたい。

「神様は、気まぐれなのでしょうね」

庄兵衛は疲れたのか、櫂を漕ぐ手を休めた。舟はそれでも暗い海を滑っていく。その光景はまるで光が絶えた宇宙を放流しているようだ。

「神様は無から有を生み出します。ときに有を無に還すこともあります。だけど人間にはそれができない。人間にできることは、有から無に還らないように繋ぎ止めることくらいです」

「なにが言いたい」

「神様は自分の形に似せて人を作りました。だがそんなに似ていなかったという落ちですよ」

庄兵衛はそこで腰を下ろした。舟が左右にゆれてすぐにおさまる。庄兵衛は手の強ばりをとるように、両の手首をぶらつかせた。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『門をくぐる』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。