逆に、こんなこともあった。「母の思い出」という題の宿題作文を提出する日の朝、席を外した彼の鞄の中にその原稿を見つけ、それをみんなの前で声高らかに読み上げたところ、戻ってきた大嶺が「止めろ!」と叫んで原稿をもぎ取り、引きちぎり、泣きながら駆け抜けて行ったこともあった。その大嶺も高校に入ると空手を本格的にやりだし、みるみる巨漢となり、立場が逆転した。

大学時代、名古屋から出て来た私を新宿の飲み屋に案内した際、絡んで来たチンピラといざこざを起こしたが、店のママさんから「止めときな! この人、空手の達人よ」と言ってくれたおかげで事なきを得たこともあった。彼はその後、空手一筋の道を歩み、晩年には剛柔流空手道本部最高顧問(範士十段)になった。

話は戻るが、見舞いに来た私に共感したのか、話が進むうちに「ヨシオ、一緒に『同期の桜』を歌おう」と言いだした。これまで寝たきり状態だったため、奥さんもビックリした。

本人の強い要望に応え、脇を抱きかかえながら並び立ち、軍歌「同期の桜」を拳を振りながら二人で歌った。

貴様と俺とは同期の桜

同じ航空隊の庭に咲く

咲いた花なら散るのは覚悟

みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは同期の桜

同じ航空隊の庭に咲く

血肉分けたる仲ではないが

なぜか気が合うて 別れられぬ

(実際の歌詞では「航空隊」の個所は「兵学校」なのだが、私たちは「航空隊」と歌っていた。)

歌い終わると、彼は崩れるように横になり動けなくなったが、表情は満足げだった。

帰り際、奥さんは、「こんなに元気になったのは初めてです」と喜んでくれた。

ところが、その夜から容体が急変し、五日後に亡くなった。身内の話では、私と会った翌日から熱が出てみるみる衰弱していったという。七十二年の生涯だった。

見舞いに行ったことで死期を早めたのではないかと自責の念に駆られたが、奥さんから「亡くなる前に、あんなに元気になれたから主人は満足していたと思います」と言っていただけた。とはいえ、「燃え尽きさせてしまったのではないか……」という後ろめたい思いをぬぐえないまま、今に至っている。