「タマが出たらどうする!」 ─戦後混乱期の悪童時代─

一九九五年は戦後五十年目のふし目を迎えている。

ここ沖縄でも、戦後五十年を振り返る検証がいろいろな形で行われている。

私は戦後の混乱期に小中校時代を送った。当時のクラスの半数近くが親を亡くしていた。我が家も戦争未亡人家庭で、母親は休日なしの仕事に出て、炊事は七歳の妹に任され、水汲みが私の当番であった。みんなひもじくはしていたが、親のいない野放し家庭ゆえに、勝手気ままに遊びほうけた。

山野に散らばる小銃弾から火薬を抜き取り、それを地面に撒いて火を這わせたり、不発弾の転がる旧日本軍の防空壕に入っては、トム・ソーヤー気取りで探検ごっこをした。キャタピラを吹き飛ばされた米軍戦車の砲塔内にもぐり込んではしゃいでいると、砲塔が向けられている民家の親父から「タマが出たらどうする!」と怒鳴られたこともあった。

当時隆盛をほこった映画や少年雑誌のヒーローも遊びの対象となった。ターザン映画をみては木に縄をぶら下げ、奇声をあげた。乱歩の怪人二十面相に心酔して少年探偵団を結成し、ドロボーをさがして街中をうろつき、少年窃盗団とまちがわれた。柔道の姿三四郎に憧れ、図書館で「三四郎」という本を借りて読んだら、夏目漱石の作品だったりもした。

クラスの子をいじめて、そこの親父から追い回されたこともあれば、校庭裏で決闘して負け、格好がつかないまま学校を三日間休み、近くの丘にある亀甲墓の上に寝そべり、流れる雲を眺めて、不登校の悲哀を噛みしめたこともあった。担任から理不尽な体罰をくらい、くやしい思いをしたこともあれば、体罰を進んで受け、みんなの前でイキがったこともある。

戦災孤児の不良っぽい子に引っ張られて街中を徘徊し、近所のおばさんから「ヨシオちゃん、どうして学校行かないの!」と怒られたこともあった。近所には、学校に行けない戦災孤児が二人いた。互いにケンカでしのぎを削り、ナイフを隠し持ち、それを威圧の道具にして付き合いを強要していた。きっと独りぼっちの寂しさを噛みしめていたに違いない。

今思い返すと、ぞっとする時代を生きてきたように思う。親は貧苦にあえいでいたのに、親がいる子も、いない子もみな元気にはしゃぎ回っていた。学校を介した仲間意識がパワーの源泉だったのかもしれない。

同期の桜

那覇市の上山中学校時代の級友、大嶺芳重君が末期がんをわずらい自宅療養していると聞き、見舞いに行った。腹部に腫瘍を抱える彼はトロ~ンとした眼差しで横になっていた。

奥さんの話では食事もろくにとれず、ボーッとして寝たきりの状態なのだという。

本人の顔に間近に迫り、「おい! 大嶺君! オレだ、オオギミだ! ヨシオだ!」と何度か繰り返すと、彼は薄目を開けて、しばらくじっと見入っていたが、やがて

「ヨシオーか、お前、ディキランヌー(劣等生)だったよなー」

「ガチマヤー(大飯食い)だった……」

「よう、医者になったよなぁ……」などとつぶやいた。

大嶺とは中学二年の時、同じクラスだった。商家の御曹司で勉強もでき、ハラペコとも無縁な存在だったが、なぜか、私とは気が合った。

しゃべり合う中で大嶺は中学二年の頃を思い出し、クラスの悪童達がやらかした米婦人下着着用事件なるものの責任を問われ、担任からビンタを食らった話をくやしげに語った。

当時の上山中学校は戦後数年を経て創立されたばかりで、我々はその二期生であった。校舎のまわりには石ころだらけの平地が広がり、学校の東側(今の久米二丁目あたり)は一面ススキが密生する原野だった。原野の一画は区画化され、米軍住宅が数軒建てられていた。

ある日、その原野に数人のクラス仲間が入り込み、遊びふざけているうちに、米人宅の庭の物干し竿からパンティやブラジャーを抜き取り、それを頭からすっぽりかぶったり、首に巻いたりしてススキの密生地で戦争ごっこをした。

それからまもなく、米人宅から校長に厳しいクレームが入り、下着着用事件なるものが発覚した。責任を問われた担任は烈火の如く怒り、クラスの悪童全員を教壇の前に並ばせ、一人一人にビンタを食らわせた。その遊びには、彼は参加してなかったものの級長として監督責任を問われビンタを張られたのだった。当時は、特攻隊上がりや、予科練帰りの意気のいい先生方もいて、ビンタを張るのも当然という風潮があった。

事件の背景に思いをいたせば、戦争に負けた悔しさというか、米人への反感のようなものが子どもたちにもくすぶっていたのだろう。中学校のわきの道路を走る米人車両に、別クラスの生徒数人が石を投げつけてリアガラスを割り、朝礼で校長の厳しい叱声が飛んだこともあった。巷においても基地から食料や物品をこっそり持ち出しては「戦果をあげた」と胸を張る大人もいたし、力道山が米人プロレスラー・シャープ兄弟を空手チョップでやっつける場面がニュース映画や口コミで伝わり、オール沖縄で欣喜雀躍、拍手喝采したものだった。

中学二年当時の彼は小柄で細く、那覇市楚辺にあった玉城道場で一緒に柔道を習い合う仲でもあった。体重の軽い大嶺は容易に私の巴投げの餌食になった。

ある日、彼らと共に数人で波之上海岸に泳ぎに行く途中、一列に並んで立ち小便し、尿しぶきを遠くまで飛ばし合っていたとき、私のズボンの前をのぞき込んだ彼が「ヨシオ! お前、毛が生えている!」とはやし立てたのでムキになって追い回したこともあった。ところがその冷やかしも三か月後ピタリと止んだ。本人にも毛が生えたのだ。