第一部

佐四郎の父は純之助という。佐治衛門の末っ子である。家業は前述の如く庄屋。

そこで、まず庄屋について説明しなければならないが、庄屋とは、辞典によれば、江戸時代に村政を担当した村役人の一つで、庄屋、組頭、百姓代という「村方三役」のもっとも上の位となる役職である。現代風に言えば村長さんに相当する。

「庄屋」という呼称は、主に関西以西で使われ、関東では「名主」といい、さらに東北、北陸地方では「肝いり」という呼称が使われたようである。主な仕事は、年貢米徴収の責任者であり、お上からの法令を伝えたりして、農民を指導監督する末端の行政官という性格のものであった。

庄屋(名主)は、戦国時代からの有力武将がその地に住み続け、その末裔が世襲的に請け負っている場合が多く、そんなことから地域では名門の家系が多い。階級的には農民だが、苗字帯刀を許された武士と同じ扱いを受けた。また、財力から見ても、当時下級武士よりずっと豊かで、広大な敷地に大屋敷を構えている庄屋が多く、百年以上経った昨今でも、その屋敷は地域の文化遺産として保存されている所も少なからず見られている。

戦国時代に京より当地の馬入堂山城城主として赴任してきて、この地に土着した戦国武将の白河右京ノ介と、その末裔である白河一族もそれに相当する。戦国時代に領地として所有していた広大な土地がそのまま子孫に受け継がれ、多くの農民(小作人)を抱えることができ、それが庄屋を任される理由ともなった。

さて、市場村の庄屋としての白河一族では、最初、本家筋の家系が世襲制で請け負っていて、佐四郎の先祖は、親族として庄屋の手助けをしていたらしい。その内に、白河一族の他に有力農民が交代して庄屋に
なった時期もあったが、市場村の庄屋履歴の記録を見ると、ほとんどが白河一族の世襲で引き継がれている。

やがて、江戸時代の半ばになると、本家筋の家系で庄屋を営むだけの人望を備えた人物がいなくなり、丁度その頃、親戚筋となる佐四郎の家系に「小兵衛」という傑出した人物が出て、請われて庄屋を任されることになった。それが佐治衛門の父親である。そして、そのまま庄屋は子の佐治衛門に引き継がれることになったのである。

かくして、佐四郎の先祖は、江戸時代の後半期の一時期に父子二代にわたって庄屋を営むことができ、祖父と曾祖父の代で市場村でも有力な富農になることができたのであった。三十間四方の塀で囲まれた大豪邸もこの時期建てられた。

佐治衛門の妻の名は「半」という。実は、半の実父が小兵衛で、佐治衛門は他家より迎えられた婿養子だった。備前児島郡福田邑の三宅重右衛門の次男で、その有能さを買われて白河家に迎えられたらしい。

当時は、家と家との結びつきで政略結婚することも多かった。とは言っても、やはり佐治衛門と半の二人がお互いに好意を持ち見初めあったから結婚できたのであろう。元々才能のある佐治衛門は、経験豊富な義父、小兵衛に手取り足取り教えられ、若くしてやり手の庄屋に育ったようである。

二百六十年あまり続いた江戸時代には、天候不順に見舞われることも度々で、日照り続きの干ばつや害虫による被害、時には大雨で水害が起きたりして農作物の収穫が減り、しばしば飢饉に見舞われることが多かった。特に、佐治衛門が庄屋をやっていた天明年間には、江戸時代最大とも言われる大飢饉が全国的に起こり、天明の大飢饉として歴史に残されている。そして、餓死者が続出してあちらこちらで暴動が発生したりもした。

そんな中でも、佐治衛門は米や農作物の収穫量を減らさないよう、あれこれと策を巡らし農民の指導にあたったようで、幸いにして、備中地域は大きな天候不順に見舞われることも少なく、その上に、高梁川とその支流からの豊富な水が確保できるという好条件が揃っていたことも幸いした。そんな好条件は即庄屋の収入アップにつながり、佐治衛門に経済的な豊かさをもたらした。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。