初めてのお使い

何年か前から幼児が一人でお使いに行く「はじめてのおつかい」というテレビ番組が時おり放映される。

番組スタッフや近所の人たちがこっそり見守り、お使いに挑戦する子どもを軽快な主題歌に乗せて追跡する番組である。私の初めてのお使いは小学三年、九歳の時(昭和二十三年)であった。

那覇から石川の市役所まで行き、持参の書類に捺印してもらうことであった。戦後間もなく、疎開先の宮崎から石川の町に移住し、そこから再び那覇に引っ越したため、何らかの書類上の手続きが必要となった。

母が亡くなった今、その詳細については不明だ。四人の子を抱えた戦争未亡人の母は多忙で休みがとれず、長男の私がお使い役を担うことになった。

お使いと言っても定期バスなどなく、移動は"ひろい車"と称するヒッチハイクが唯一の移動手段であった。街角に立ち、トラックが来ると手を上げ、行き先を告げ、後部の荷台に乗せてもらうのである。

夜明けと共に、母は書類を私の腹巻きに挟み込み、B円紙幣を何枚か渡して見送った。大人に交じって街角に立ち、停まってくれたトラックに行き先を告げた。

運転手は、途中まで乗せるから石川行きのトラックに乗り換えろと伝えた上で、荷台に乗せてくれた。未舗装で埃がもうもうと舞う凸凹道を前後左右に跳ね飛ばされながら荷台に必死にしがみついた。

途中で三回"ひろい車"をして数時間かけて石川の町にたどり着いた。到着後、すぐには市役所に行かず、女たちが道ばたにザルを並べて商売している市場(まちぐゎー)に立ち寄った。

目星の菓子や飴は探しても見つからず、やむなくたくわんと芋を買って、頬張りながら市役所へ向かった。途中、わざわざ腹巻きを開けて中身を確認したのがいけなかった。

仕舞い方が悪く、書類を落としてしまったのだ。市役所にたどり着いて紛失に気づいた。べそをかいて引っ返し、オロオロしていると市場のそばの写真屋のおじさんが顔を出し、「どうしたの、坊や」と言うので訳を話すと書類を保管してくれていた。

午後遅くたどり着いた市役所で、事情を知った担当の女性はえらく感心してキャラメルを山盛りにした小皿を差し出してくれた。見たこともないキャラメルに釘付けになりながらも手は動かなかった。

母からいつも「あんたは食いしん坊だから、何か出されてもすぐ手を出すものではないよ」と口癖のように言われていたからだ。

食べ損なったあのキャラメルの山は、今でもありありと目に浮かんでくる。戦後の混乱期の沖縄では助け合いのシステムがきちんと機能していたから、こういうお使いが可能だったのかもしれない。

※本記事は、2020年3月刊行の書籍『爆走小児科医の人生雑記帳』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。