第一部

時は遡って江戸時代半ばをやや下った天明、寛政年間、佐四郎の祖父の時代に移る。祖父の名は白河佐治衛門という。住まいは、先ほど佐四郎がいた川辺の船着き場から南西方向に一里半(約六キロ)ほど離れた市場村(薗村とも呼ばれていた)の見瀬という所にある。

元々、佐四郎の先祖がこの地に住み着いたのは戦国時代で、当時、京都の嵯峨野に居を構え、「北面の武士」をしていた先祖の白河右京ノ介が、備中警護と監視のために市場村の北側にそびえる馬入堂山(ばにゅうどうざん)の山城に城主として派遣されてきたのが始まりであった。

ちなみに、「北面の武士」というのは、十一世紀末(平安時代末期)白河上皇によって組織された武士団で、最初上皇を警護するのが主な目的だった。しかし、そのうち天皇を警護する警護隊となり、最後の方では形骸化して名ばかりのものになったようだが、一応は幕末まで存在していた。

また、「北面の武士」には、上北面と下北面があり、その中で、「上北面の武士」には家柄のいい武将やその子弟が選ばれた。当時、右京ノ介は従五位という位だったので、そのことから考えても、「上北面の武士」だったはずである。それは、右京ノ介が、あの菅原道真の子孫である菅家一門の武家であったからとも言われており、このことが、後世にこの一族が菅原道真の末裔であると伝えられるひとつの根拠ともなっている。

さて、戦国時代の初め頃、備中支配の要である現高梁市にある備中松山城は上野一族が支配し治めていた。上野一族は、その頃備中備前にまで勢力を広げていたのである。この上野家は、当時の室町幕府、足利将軍家と縁続きの家柄で、右京ノ介もこの上野家の子女と結婚したことにより親戚関係にあった。

それで、備中警護の手助けをするためにこの山城に派遣されてきたのである。この馬入堂山城は、眼下に山陽道を望み、この辺りに睨みの利く格好の山城だったわけである。

ところが、なにせ乱世の時代、上野一族の栄華は長く続かなかった。まもなく、備中松山城は庄氏に奪われるが、程なくして、当時中国地方の大大名である毛利氏と宇喜多氏の支援を受けた三村家親が庄氏を攻め滅ぼし、松山城主に取って代わったのである。

結果的に三村氏は仇討をしてくれたことになり、上野一族の上野高徳は家親に近づき息女の鶴姫を室として迎えた。それにより三村氏と同盟関係を結ぶことができた。そして、それをバックに上野高徳は備前の常山城主として備前一帯を支配し続けることができたのだった。

ところが、三村家親の子、元親は、なぜか毛利の敵方となる織田信長についたために毛利氏の怒りを買い、まもなく毛利元就の大軍が松山城に押し寄せ、城はたちまち陥落したのである。その勢いで、毛利の軍勢は南へと攻め込み、やがて、同盟関係を結んでいた上野一族の最後の砦となった備前児島の常山城を包囲し、激しい攻防戦が繰り広げられた。

ここで城は陥落し、城主上野高徳とその一族は滅びることになった。そして、最後まで果敢に戦った奥方の鶴姫と女たちの物語は、「常山哀記」として後の世に語り継がれている。

この時、右京ノ介は家老の立場にいて参戦したが、負傷し命からがら市場村のわが家にたどり着いたようであった。そして、その負傷が元で戦いのあった翌年(一五七六年)に死去している。

この右京ノ介が京より備中に派遣されてきたのは二十歳前後の若い頃で、亡くなったのが七十歳代だから、五十年以上もの長い間ここで暮らしていたわけである。言い伝えによれば、相当人望が厚い人だったらしく、任期を終えたら、若くして京に帰り出世する道もあったようだが、地元の人たちに慕われ引き留められたことで、この地に留まったと言われている。以後、白河一族は、その末裔がこの地にずっと住み続けることになる。

やがて、江戸時代になると、この地域は徳川幕府の下で岡田藩伊東家の支配する領地となるが、白河一族は、素直に恭順の意を示したため庄屋を営むことを許された。以後、白河一族が代々庄屋を継ぎ、時々他の村人に交代したこともあったが、一貫してこの辺りの村落を指導管轄してきたようである。そして、江戸時代のやや後期となる天明、寛政の頃、佐四郎の祖父にあたる佐治衛門が庄屋を引き継いだのである。

元々、この辺りは山のすそ野に広がる、ゆるやかに傾斜した肥沃な土地で、ほぼ中央を末政川という小川が流れ、水利にも恵まれている。だから年貢米の収穫量も多く、経済的にも恵まれていたらしい。

佐治衛門の住居とて、三十間(約五十メートル)四方の塀で囲まれた大豪邸だった。庭には、数本の松の木と築山、そこから池に流れ込む滝があり、池には大きな鯉がゆう然と泳いでいた。そして、その傍らの一角には大きな蔵もあった。佐四郎は、このような経済的に恵まれた庄屋の家庭に、佐治衛門の孫として誕生したのである。

※本記事は、2019年8月刊行の書籍『高梁川』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。